重森三玲の庭編(26):非核「神戸方式」の碑(14.3)

 すぐ近くにあるのが海岸ビルヂング、1911(明治44)年に竣工された風格のあるビルでした。少女の銅像があったので近寄ってみると、『非核「神戸方式」の碑』でした。後学のために碑文を転記しておきます。
核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議
 神戸港は、その入港船舶数及び取り扱い貨物量からみても、世界の代表的な国際商業貿易港である。
 利用するものにとっては使いやすい港、働く人にとっては働きやすい港として発展しつつある神戸港は、同時に市民に親しまれる平和な港でなければならない。
 この港に核兵器が持ち込まれることがあるとすれば、港湾機能の阻害はもとより、市民の不安と混乱は想像に難くないものがある。
よって神戸市会は核兵器を積載した艦艇の神戸港入港を一切拒否するものである。
 以上、決議する。

 1975年3月18日 神戸市会
 神戸方式? 寡聞にして知りませんでした、勉強が足りませんね。さっそくウィキペディアで調べたところ、核兵器の港への持ち込みに対する地方公共団体の対応方針のことだそうです。神戸市は神戸港に寄港する外国軍の艦船に、核兵器を搭載していないことを証明する「非核証明書」の提出を義務付けているのですね。それではその概要と経緯について引用します。
 1975年(昭和50年)3月18日に神戸市の議会である「神戸市会」が「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を可決して以降行われている。採択後、フランス軍やイタリア軍、インド軍などの艦船が証明書を提出して神戸港に入港しているが(イギリス海軍も証明書を提出、"違反した場合は寄港拒否も甘んじて受ける"と表明している)、アメリカ海軍は神戸港のこの方式を批判して近隣の姫路港には寄港するものの神戸港には寄港の意志すら示すこともなかった。(略)

 第二次世界大戦での日本の敗戦のあと、神戸港は連合国軍の占領下に置かれたが、1951年(昭和26年)には解除されている。しかし、新港第6突堤は朝鮮戦争やベトナム戦争におけるアメリカ軍専用の修理補給基地として接収されたままになっていた。
 ベトナム戦争のクリスマス休戦期間には、三宮や元町の繁華街にアメリカ軍兵士が溢れて一般市民とのトラブルを絶えず起こしていた。やがて、「米兵のいない静かなクリスマスを」といったスローガンを掲げたクリスマス闘争と呼ばれる市民運動や、新港第6突堤返還を求める港湾労働者の運動が頻発するようになる。
 戦争の終結後、アメリカ軍がベトナムから撤収した翌年の1974年(昭和49年)には神戸港からも完全撤収するに至る。そして、翌1975年(昭和50年)に神戸市会では、港の平和利用を担保する事を非核三原則に則り、「核兵器積載艦艇の神戸港入港拒否に関する決議」を全会派一致で採択し、入港する外国軍の艦船に「非核証明書」の提出を義務付けた。この政策を導入した当時の市長・宮崎辰雄は、イデオロギーと関係なく実務的におこなった、非核三原則の存在を前提にそれを現実化する手続を作っただけと述べているが、その一方で証明書を出さない艦船は入港を拒否するし、それでも入港するなら信義の問題として抗議すると述べたことも指摘されている。
 河田雅史ではありませんが「やるでねが」と称えたいですね。それにしてもアメリカ合州国に対応を見ると、やはり核兵器を日本に持ち込んでいるのですね。でないのなら、瓜田に履を納れず、李下に冠を正さず、きちんと証明書を提出すればいいのに。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-08-19 08:29 | 近畿 | Comments(0)
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