重森三玲の庭編(40):旧山邑家住宅(14.3)

 というわけで二度目でしたが、今回も堪能することができました。山ノ神も、目をとろんとさせて「こんな家に住みたい…」とたいそうご満悦の様子です。なおライトについては、『帝国ホテル・ライト館の謎 -天才建築家と日本人たち』(山口由美 集英社新書)という面白い本がありますので、紹介しておきます。その中に、下記の一文がありました。
 林七郎は、ライトについて辛辣な言葉を重ねながらも、ライトのことを称して「彼はデザイナーであって、建築家ではない」という言い方をしていた。この言葉は、ある意味で、的を得ている。建築家としての彼を否定するのではない。ライトの才能の本質は、建築の技術的な部分ではなく、その独創的なデザイン性にこそあると思うからだ。(p.190~1)
 例えば、ライトが設計した帝国ホテルは雨漏りがひどかったというホテルマンの証言があるそうです。ライトは、柔らかく彫刻がしやすいことから、本邸でも帝国ホテルでも大谷石を多用しましたが、この石は水に弱いのですね。(p.175~6) 機能を犠牲にしてでもデザインを重視する。住む人、使う人にとっては困りものですが、それを補ってあまりある見事な装飾と意匠。その中途半端な妥協点をさがすのではなく、あえてデザインに賭けたところが、私にとってのライトの魅力です。
 なお私がライトと同じくらい、いやそれ以上に好きな建築家が遠藤新(1889~1951)です。出身は福島県相馬郡。東京帝国大学の建築学科の学生となった遠藤は、雑誌でライトの存在を知り、大きな感動を覚えます。そのライトが帝国ホテルの設計のため来日すると知ると、遠藤は帝国ホテル支配人に頼み、ライトのアシスタントとなりました。そして、ライトと共に渡米し天才の仕事ぶりをタリアセンで学びます。しかし、ライトの妥協を許さぬ仕事ぶりにより、工期は遅れ、建設費は膨らみます。結局ライトは解任され、遠藤が代わりに帝国ホテルを完成させることになりました。その後遠藤は、満州で活躍します。帝大建築学科を出ているとはいえ、ライトに師事し、大御所・辰野金吾を批判した遠藤は日本の建築界では異端者であり、自由に仕事ができる新天地・満州におもむいたのですね。日本とアメリカが戦争に突入すると、彼の元に愛弟子の身を案じたライトからアメリカ移住を誘う手紙が届きます。しかし、遠藤は日本に合ったライト式建築を根付かせたいという思いからこの申し出を断り、その後満州で病魔に倒れ帰国。戦後、1951年に志し半ばでその生涯を終えました。彼の作品は、これまで自由学園明日館講堂、上山田温泉「豊年虫」、久保講堂旧甲子園ホテル目白ヶ丘教会と見てきましたが、これからも追いかけていきたい建築家です。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2015-09-05 08:28 | 近畿 | Comments(0)
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