重森三玲の庭編(46):ホテルにて(14.3)

 最近読んだ『日本戦後史論』(内田樹・白井聡 徳間書店)の中で、内田氏自らが次のように分析されています。なお白井聡氏は名著『永続敗戦論』の著者です。
内田 神戸市で、二〇一四年五月三日に開かれた護憲集会に呼ばれて、そこで講演することになりました。すると、それまで護憲集会を毎回後援してきてくれた神戸市と神戸市の教育委員会が「後援しない」って言ってきました。政治的中立性を損なう可能性のある行事に公的支援はできないという理由でした。でも、これはおかしいと思う。僕は護憲集会で「憲法をたいせつにしましょう」という趣旨の講演をすることになっていたんです。でも、市長も、教育委貞長も、特別公務員なわけだから、憲法九九条で「憲法を尊重し擁護する義務」を課されている。彼らは辞令を受けるときに、憲法と法律と条令を遵守しますという誓約書に署名捺印しているはずです。その公務員の全業務の根本規範である憲法を「たいせつにしよう」という講演をするときに「護憲改憲いろいろな意見があるときに、護憲の立場を支援することは政治的中立性を欠く」という理屈で後援を拒否してきた。つまり、公務員の立場でありながら、「憲法を遵守しよう」という主張は単なる政治的私見にすぎず、「憲法を廃絶しよう」という主張と同等に扱われるべきだという判断を公言したわけです。公務員が尊重遵守義務を公的に放棄したという憲政史上の一大事件だったわけですけれど、結局ほとんど問題にならなかった。
 何度目かの取材のときに、これから市役所の方にも取材に行きますという記者の方にこうお願いしました。「たしかに、改憲、護憲といろいろな政治的意見があるのは事実である。だから、百歩譲って護憲という立場には政治的中立性がないということを認めてもいい。その代わりに、今後仮にもし自民党の改憲案が国会を通って、自民党の改憲案が日本国憲法になったときに、『憲法制定奉祝集会』や『護憲集会』が開かれたときにも『護憲改憲いろいろな政治的意見があるときに、護憲という特定の立場を支持することは政治的中立性を欠くので、市も市教委もこれらの活動を後援しない』ということを一筆念書に書いてほしい。それを約束してくれるなら、今回の後援取りやめについて、今後私はいっさい抗議をしないし、批判もしない。念書を書いて頂けるだろうか?」そう伝言してくれるようにお願いしました。そのあと記者の方から電話があったので「どうでした?」と聞いたら、「返事してくれませんでした」ということでした。
 それでわかるとおり、別に市や市教委は政治的中立性に配慮しているわけじゃないんです。現政権に配慮しているだけなんです。「改憲」を掲げている政党が与党なので、「護憲」を主張する人間は「反政府的な不達の輩」だということになる。そんないかがわしい人物の講演に市や市教委が名前だけでも貸したらいけない。そういうことを言い出した市会議貞か県会議員がいたんでしょう。そういう小粒な連中が市や教委に脅しをかけた。たぶん、そんなことだと思います。市庁舎の役人や教員の人間が「内田に喧嘩を売る」ような面倒なことを自発的に思いつくはずがないですから。そんなことをすれば、いずれあちこちの新聞や雑誌に「神戸市と神戸市教委は」ということを何度も何度も善かれるに決まっている。役人は「問題になってメディアに出る」ことを嫌いますから、そんなことを自分から思いつくはずがない。でも、議員が「この内田というのはお上に逆らうワルモノだから、こういう人間を名目的にではあれ後援してはならない」というようなことを言ってきたら、現場の役人は抵抗できない。とにかく問題を起こしたくない。ですから、「今目の前で怒鳴りつけている議員のもたらす不快」と「そのうち内田が持ち出す(かもしれない)問題がもたらす不快」を秤にかけて、とりあえず目の前のプレッシャーに屈服することにした。
 でも、役人の主体的意思であるにせよ、地方議員の恫喝があったにせよ、どこかの「物言う市民」からの投書があったにせよ、そもそも安倍晋三は僕のことなんか知りもしないわけだし、僕が何かをしゃべったって、彼の政治基盤が揺らぐはずもない。だから、官邸から「内田の言論活動を制約しろ」なんていう指示を出すはずがない。そういうことをするのは全部「小物」なんです。「お上」はこういう人間をきっと嫌うに違いないというふうに「忖度」して、頼まれてもいないことをする。
 こういう「忖度する小物」たちが今では日本の政治機構を機能不全にしている。トップダウンでさえない。下僚たちが、勝手に「上はこういうことをしてほしがっているのではないか」と想像力をたくましくして、自分勝手な行動を始めている。自分の考えではないから、それに対して責任を取る気なんかない。「たぶん、上の人はそう思っているだろう」という推測に基づく判断ですから、責任はあげて「上の人」にある。「上の人」はそんな指示を出した覚えがないわけですから、もとより責任を取ることなんかしない。つまり、「忖度システム」が作動し始めると、機構の中のどこにも責任者がいなくなるのです。「丁稚、手代、番頭、大旦那」が形成する「大店システム」の話をしましたけれど、今の日本は丁稚の小僧が「大旦那のご意向」を忖度して、それだけでシステムが動くという仕組みになっている。「超事大主義」とでも言えばいいのか。全員が上位者のご意向に従うことに懸命で、誰も責任を取る気がない。

白井 まことに驚くべき状態ですよ、これは。丁稚の小僧が何かつまらんことを言うと、「それは大変だ!」と言ってシステムの全体が揺さぶられる。ニーチェ流の皮肉な言い方をすれば、これぞ究極の民主主義です。こんなわけのわからない状態は、消費社会化の深化に関係していると思われます。つまり、忖度の文化が、官僚主義的事なかれ主義とお客様は神様という考え方と結びついた。(p.102~6)

by sabasaba13 | 2015-09-12 06:09 | 近畿 | Comments(0)
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