重森三玲の庭編(47):ホテルにて(14.3)

 なお『街場の憂国論』(晶文社)の書評でも書きましたが、内田樹氏の明晰で歯切れのよい文章、該博な知識、説得力のある理路、そして巨視的な歴史眼については常々敬服をしております。最近読んだ『街場の教育論』(ミシマ社)の中で、氏が阪神淡路大震災を経験したときの体験が紹介されていました。長文ですがたいへん興味深いものなので引用します。
 95年1月に本学(※神戸女子大)はご存じのとおり、大震災に襲われて、大きな物的損害を出しました。私は震災の翌日に学校に行ってみました。何とか登校してきた二、三十人の教職員があちこちで散発的に片づけをしている。とりあえず私も自分の研究室を片づけました。本が本棚から落ちただけですから、これはすぐに片づきました。自分の部屋を片づけてから外へ出て、あたりを見回した。想像を絶する壊れ方でした。
 そのときから二週間分くらい記憶がないんです。毎日大学までバイクで通って、一日土木作業をして、夕方になると芦屋の山手小学校の体育館に戻って、娘と晩ご飯を食べたことは覚えています。でも、大学でその間に何をしていたかについては、ほとんど記憶がない。人間というのは、あまりにやる仕事が多く、それに対して自分のできることがわずかであると、もう自分が「何をしている」のか考えなくなるんですね。ただ一日中下を向いて、瓦礫を片づけ、倒れた家具を起こし、開かない扉をこじ開け、そういう際限のない力仕事をしていた。いくら働いても、瓦礫の山は少しも減らない。秩序は回復しない。私の労働力がもたらしたものは、大学に秩序を回復するために必要な労働力の総量のたぶん数億分の一くらいの比率のものだったでしょう。人間というのは、自分の努力がほとんど目に見える成果をもたらさない労働をしているときに、絶望したくなければ、下を向いてやるしかない。とりあえず自分の足下のガラスの破片を片づけ、落ちている本を一冊書棚に戻すというような「ザルで水を掬う」ような作業を延々と続ける以外に手立てがない。
 そのうちに自然発生的に、集団を作って作業をする方が効率的だということがわかってきた。十人ほどの集団を作って、みんなでぞろぞろと学校のあちこちへ行って、閉まっている研究室のドアを開けたり、転がっている実験道具を起こしたり、そういうことを毎日毎日、行っていました。
 そのとき、ある先生が来て提案しました。「このような非能率的なことをやっていては意味がない。何日かかるかわからない。せっかくこうやって頭数が揃っているのだから、きちんと工程表を作り、労働力を中枢的にコントロールして無駄なく配備しようじゃないか」と。
 でも、誰も言うことを聞かなかった。やはり何となくぞろぞろと学内をあちこち移動しては行き当たりばったりに作業をしていた。その先生はだんだんと不機嫌になってきた。「君らはなんという無駄なことをしているのだ。作業を中止して、みんな会議室に集まれ。きちんと相談して、全体の工程表を作って作業すればはるかに能率的だろう」と。でも、誰も耳を貸さない。ついに、その先生は怒りだして、「俺はもう知らん。おまえら、勝手に非能率なことをやってろ」と言って、そのまま家に帰ってしまいました。

 この人の考え方はよく理解できます。「簡単なソリューション」がある。それを採用すれば問題は効率的に解決する。自分はそのソリューションを知っている。彼はたぶんそう思っていたのでしょう。でも、それに耳を貸す人はいなかった。どうしてでしょう。それは実際に現場で石を拾っている人たちには、「そんな簡単な話じゃないんだよ」ということが実感としてわかっていたからです。これは中枢的に統御して、工程表や人員割り当てを決めて操作できるような話じゃない。とりあえずひとりひとりがまず足元の石を拾い上げるしかないほどの規模の災厄なのだということが直感的にわかっていた。その先生の「ソリューション」にみんなが興味を示さなかったのは、その先生が自分では石を拾わずに、もっぱら「効率的に人に石を拾わせるプラン」に時間を使っていたからです。
 そういう非能率的な作業を数週間続けていくうちに、ある日、気がついたらすべての瓦礫がほぼ除去されて、授業が始まりました。人間の力というのは、アリが石を運んでいくようなものでしたが、たいしたものだとつくづく感じました。
 たしかに、その先生が言ったように、仕事というのはできることなら、行き当たりばったりではなく、入念に計画し、重要度の高いところに優先的にリソースを投じるべきものなのでしょう。もちろん。でも、それは「日常的な仕事」の場合です。危機があるスケールを超えると、そういう中枢的なコントロールが効かなくなる。コントロールしようとしてもいいけれど、コントロールすることそのもののために、貴重なリソースを投じなければならない。適切な「瓦礫除去計画」を立案するためにはまず被害の精密な調査をして、優先順位について学内合意を形成しなければならないし、教職員たちには「君は明日、何時何分から何時何分まで、どこそこでどういう作業をせよ」というふうな割り振りをしなければならない。それは、いずれも不可能だったのです。
 被害の精密な調査をするためには、やはり開いていないすべてのドアを開け、廊下を前に進めるように瓦礫をどけないことには話にならない。復旧の優先順位についても、誰もが「自分のところ」とは言えても、「うちの学科の建物は最後でいいです」とは言えない。それに、教職員たちは業務命令ではなく、自分の意思で来ていたのです。現に、すべてが片づいて授業が始まるまで大学に顔を出さなかった教員たちも相当数いたのです。彼らはときならぬ「長い春休み」を享受していたのです。彼らの言い分はわかります。登校して復旧作業に従事せよという業務命令があれば、彼らだって登校したでしょう。でも、誰からもそんな命令は出されなかった。公式な業務命令がないから「私の仕事はない」と彼らは思ったのでした。彼らはこの世に「公式な業務命令が出せない」(それが「危機的」ということですけれど)状況があるかもしれないということについて想像力の行使を惜しんだのでした。まあ、古い話についての愚痴はやめておきましょう。(p.176~80)
 いきあたりばったりでもいいからまずは自分の手で石を拾う、そうやって被災地の方々は復興に力を尽くしてきたのですね。効率という発想では解決できない危機に際して、みんなで力を合わせて対処する、自戒の念を込めて肝に銘じたいと思います。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2015-09-13 06:03 | 近畿 | Comments(0)
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