『母と暮せば』

『母と暮せば』_c0051620_610786.jpg 山ノ神に誘われて、ユナイテッド・シネマとしまえんで『母と暮せば』を見てきました。なにはさておき、パンフレットの冒頭に掲載されていた山田洋次監督の言葉を紹介します。
 50年以上の間、たくさんの映画を作ってきましたが、終戦70年という年にこの企画に巡り合ったことに幸運な縁と運命すら感じています。井上ひさしさんが、「父と暮せば」と対になる作品を「母と暮せば」という題で長崎を舞台に作りたいと言われていたことを知り、それならば私が形にしたいと考え、泉下の井上さんと語り合うような思いで脚本を書きました。生涯で一番大事な作品を作ろうという思いでこの映画の製作にのぞみます。
 その舞台劇を映画化した『父と暮らせば』も良い作品でした。宮沢りえの最後の科白、「おとったん、ありがとありました」が忘れられません。
 本作は、冒頭の言葉通り、故井上ひさし氏に捧げるオマージュとも言うべき映画です。1945年8月9日、長崎で助産婦をしている福原伸子(吉永小百合)は、たったひとりの家族だった次男の浩二(二宮和也)を原爆で亡くしました。なお夫は肺結核で死去、長男はビルマで戦死しています。それから3年後、伸子の前に浩二の亡霊がひょっこりと現れます。母さんの諦めが悪いから、なかなか出て来られなかったと笑いながら。その日から浩二はたびたび伸子を訪れますが、いつも気になるのは恋人の町子(黒木華)のことです。新しい幸せを見つけてほしい-そう願いながらも寂しい気持ちは母も息子も同じでした。楽しかった家族の思い出話は尽きることがなく、ふたりが取り戻した幸せな時間は永遠に続くように見えたのですが……。

 まず命を生むのを助ける助産婦と、命を奪い尽くす原爆という対比の設定が秀逸ですね。そして主人公・伸子の持つさまざまな顔や、揺れ動く気持ちを、自然に演じ切った吉永小百合の演技には脱帽しましょう。息子への思慕、彼の死への諦観と固執、気丈さと心弱さ、町子への愛情と微かな憎悪。「なぜあなたが死んで、あの娘は幸せになるの」という哀切きわまる科白には胸をつかれました。その町子を演じる黒木華もすばらしい。亡き浩二への思いと同僚への恋心に引き裂かれる若き女性の姿を表現したみごとな演技でした。二宮和也がすこし軽いかなと思いましたが、その軽さが映画全体を明るくもしているので諒としましょう。
 またこの映画を通奏低音のように支える、静謐さにも心打たれました。伸子と浩二が、思い出話を静かに語り合うシーンが好きです。好きな食べ物、蓄音器、学園祭… 浩二が憲兵に連行された時に伸子が本部に乗り込んでとりもどした思い出、その後ふたりで食べたタンメン。何気ないけれど、大事な、幸せだった日常を、二人が慈しむように語り合うシーンが印象的です。その日常を死滅させたのが、アメリカ政府が長崎に投下した原子爆弾でした。「日常を守れ」というのが山田監督のメッセージなのではないかと思います。実は故井上ひさし氏もこう言っています。
 このところわたしは、「平和」という言葉を「日常」と言い換えるようにしています。平和はあまり使われすぎて、意味が消えかかっている。そこで意味をはっきりさせるために日常を使っています。「平和を守れ」というかわりに「この日常を守れ」と。(『ボローニャ紀行』p.357 文春文庫)
 忘れてはならないのは、「原子爆弾はアメリカが投下した」という視点が随所に挿入されていることです。「運命だ」と諦める浩二に対して、「いや違う」と否定する伸子。冒頭のシーンでは、被爆者と思われる初老の男性が、丘から海を眺めながら、「人間のすることじゃなか」と呟きます。
「あなた方アメリカは原子爆弾によって、人々の日常を残虐に破壊した。それは人間のすることではなかった」 これも監督から私が受けとったメッセージです。日本がその非人間性をきちんと批判してこなかったことが、現在における核兵器の拡散、および核兵器は場合によっては使用してもよい兵器なのだという考えにつながっているのではないでしょうか。結果はどうあれ、アメリカ政府に対して、核兵器投下について謝罪を要求すべきだと思います。もちろん、日本が行なったさまざまな戦争犯罪についての謝罪を済ませた後での話ですが。

 なお原爆投下ハゴイ空軍基地エイブル滑走路に関する拙ブログの記事がありますので、よろしければご覧ください。またこの映画の、長崎におけるロケ地ガイドを掲載したサイトもありました。
by sabasaba13 | 2016-03-16 06:10 | 映画 | Comments(0)
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