伊勢・美濃編(12):丸山千枚田(14.9)

 先日読み終えた『カムイ伝講義』(ちくま文庫)の中で、田中優子氏はこう述べられていますが、同感です。
 しかし今の日本人にとっての三・一一は何であったか。自然の脅威ではなく、人間の脅威だったのである。人間が作ったものが制御不能となって人間に牙を剥く。自分のために作ったものが自分を殺す。自然はその力を見せたとしても一時的である。しかしこの人工物は十万年という単位で人類を苦しめる。しかも、カムイの時代の廃棄物が土の力によって再び生産物をもたらすのと違って、核廃棄物は毒をもち続けて何ら生産に貢献しない。単なる困った廃棄物でしかない。そういうものを、人間が作ったのである。
 被災した人々は自力で復興したいと思っても、立ち入りは禁止され、互いに協力はできず、ただ何かを待つしかないのだが、待っても戻れるとは限らない。作った人間も、使った人間も、恩恵を受けた人間も、ただただ制御不可能なのだ。
 そして今、その経験を経ながら、再びその人工物を動かし、どうにもならない廃棄物をさらにためようとしている。カムイの時代のカムイ的なる人々から見ると、現代に生きる日本人は人間としてどうかしているのではないか、あるいは、滅亡に向かいたいのではないか、自滅願望があるに違いない、と思うだろう。
 身分制度下にあった江戸時代の人々であれば、この選択は天皇や将軍や一部の大名の既得権への欲望から出た選択であり、ほとんどの日本人は望んでいないはずだ、と判断するだろう。しかし違う。今の世にはカムイの知らない、全国民規模の選挙制度というものがあり、多くの国民がその道を自ら選んだのである。ある者は能動的に、ある者は選挙権を行使しないことで。どちらにしても、自ら選んだのである。
 江戸時代の人々なら、「ならばきっと、教育や出版の中で充分に情報が行き渡っていなかったのだろう。知識を得る機会がなかったのだろう」と想像するかも知れない。しかし違う。今の人々はあふれる出版物と、世界中の情報と、各国の選択を、誰でも平等にいつでもどこでも獲得し、知ることができるのだ。その上で、あるいはその機会を行使しないことによって、自ら選んだのである。
 この現実をカムイならどう考えるだろうか。カムイは自らの宿命を変えるべく村を去り、忍びとなり、追われながらも自由に向かって生きていた。そういう時代がいつかは変わる、と考えていたかも知れない。しかしなぜ今の日本人は自らを自由の方向にではなく、自滅の方向に向かわせる選択をしたのか? なぜ戦争と核廃棄物に向かって歩いているのか?
 実は私はわからない。その選択をした人たちの気持ちが、わからない。江戸文化を長いあいだ研究してきたのだが、私は今の日本人がわからない。(p.406~8)
 私もわかりません。鎌田慧氏がおっしゃったように、悪政の被害者でしかないはずなのに、権力側の言葉でしかものを考えない市民が増えてきたようです。あるいはジョージ・オーウェル言うところの「愚鈍への逃避」なのか。わかりません。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-24 06:31 | 近畿 | Comments(0)
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