伊勢・美濃編(19):神島(14.9)

 ここから鬱蒼とした森の中をさらに十分ほど歩くと「陸軍用地」という石票のある広場に出ました。ここあるのが監的哨です。
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 解説板を転記します。
 神島監的哨は昭和4年(1929年)に旧陸軍の軍事施設として、愛知県の伊良湖から撃った大砲の試射弾の着弾点を確認するために建てられました。建物は縦横7.5メートル、高さ7メートルの2階建てで、コンクリートには神島の石も使用されたといわれています。
 昭和20年に第二次世界大戦が終戦し、試砲場の消滅とともにその役目を終えました。
 この監的哨は三島由紀夫の小説「潮騒」のクライマックスシーンの舞台であり、嵐の日に主人公・新治と初江がお互いの愛を確かめ合うシーンに登場します。
 コンクリートむきだしの武骨な建物で、中に入ることができました。屋上にのぼると、さすがは着弾点を視認する施設だけあって眺望は抜群です。
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 一階の中央には囲炉裏がありましたが、初江が「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」と新治に言った名場面はここが舞台なのですね。はい、お待たせしました。その名場面を紹介しましょう。たいへん長文ですが、一言半句たりとも省略したくないのであえて引用します。
 新治が目をさますと、目の前には一向衰えていない焔があった。焔のむこうに、見馴れないおぼろげな形が佇んでいた。新治は夢ではないかと思った。白い肌着を火に乾かして、一人の裸の少女がうつむいて立っている。肌着をその両手が低いところで支えているので、上半身はすっかり露わである。
 それがたしかに夢ではないとわかると、ちょっとした狡智がはたらいて、新治はなお眠ったふりをしたまま薄目をあいていようと考えた。しかし身じろぎひとつしないで見ているには、初江の体はあまりに美しかった。
 海女の習慣が、水に濡れた全身を火に乾かすことに、さして彼女を躊躇させなかったものらしかった。待合わせの場所へ来たとき、火があった。男は眠っていた。そこで子供らしい咄嗟の思案から、彼女は男が眠っているあいだに、濡れた衣類と濡れた肌とを、いちはやく乾かしてしまおうと考えたものらしかった。つまり初江は男の前で裸になるという意識はなく、たまたま火がそこにしかなかったから、その火の前で裸になったにすぎなかった。
 新治が女をたくさん知っている若者だったら、嵐にかこまれた廃墟のなかで、焚火の炎のむこうに立っている初江の裸が、まぎれもない処女の体だということを見抜いたであろう。決して色白とはいえない肌は、潮にたえず洗われて滑らかに引締り、お互いにはにかんでいるかのように心もち顔を背け合った一双の固い小さな乳房は、永い潜水にも耐える広やかな胸の上に、薔薇いろの一層の蕾をもちあげていた。新治は見破られるのが怖さに、ほんのすこししか目をあけていなかったので、この姿はぼんやりとした輪郭を保ち、コンクリートの天井にとどくほどの焔を透かして、火のたゆたいに紛れて眺められた。
 しかし若者のふとした目ばたきは、炎の光りが誇張した睫の影を、一瞬頬の上に動かした。少女はまだ乾ききらない白い肌着ですばやく胸を隠して、こう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
 忠実は若者は強(きつ)く目を閉じた。考えてみると、まだ寝たふりをしていたのはたしかに悪かったが、目がさめたのは誰のせいでもなかったから、この公明正大な理由に勇気を得て、彼は再びその黒い美しい目をぱっちりとひらいた。
 少女はなす術を失って、まだ肌着を着ようともしていなかった。もう一度、鋭い清らかな声でこう叫んだ。
「目をあいちゃいかんぜ!」
 しかし若者はもう目をつぶろうとはしなかった。生れた時から漁村の女の裸は見馴れていたが、愛する者の裸を見るのははじめてだった。そして裸であるというだけの理由で、初江と自分との間に妨げが生じ、平常の挨拶や親しみのある接近がむつかしくなることは解せなかった。彼は少年らしい率直さで立上った。
 若者と少女とは炎をへだてて向い合った。若者が右へやや体を動かすと、少女も右へすこし逃げた。そこで焚火がいつまでも二人の間にあった。
「なんだって逃げるんじゃ」
「だって恥かしいもの」
 若者は、それなら着物を着たらいい、とは言わなかった。少しでもそういう彼女の姿を見ていたかったからである。そこで話の継穂にこまって、子供のような質問をした。
「どうしたら、恥かしくなくなるのやろ」
 すると彼女の返事は、実に無邪気な返事だったが、おどろくべきものであった。
「汝(んの)も裸になれ、そしたら恥かしくなくなるだろ」
 新治は大そう困ったが、一瞬のためらいのあとで、ものも云わないで丸首のセエタアを脱ぎだした。この脱衣のあいだに、少女が逃げはしないかという懸念がはたらき、脱ぎかけるセエタアが顔の前をとおる一瞬にさえ、若者は油断しなかった。手早く脱ぎ捨てたあとには、着物を着ているよりはずっと美しい若者の褌一本の裸体がそこに立っていた。しかし新治の心は初江にはげしく向っていて、羞恥がやっとその身に帰って来たのは、次のような問答のあとであった。
「もう恥かしくないやろ」
 と彼が詰問するようにはげしく問いつめたので、少女はその言葉の怖ろしさも意識せずに、思いもかけない逃げ口上を見出したのである。
「ううん」
「なぜや」
「まんだ汝は裸になっとらんもの」
 炎に照らされた若者の体は羞恥のために真赤になった。言葉は出そうになって咽喉に詰った。爪先がほとんど火のなかへめり込むほど迫り寄って、新治は炎が影を揺らしている少女の白い肌着をみつめながら、辛うじてこう言った。
「汝がそれをとったら、俺もとる」
 そのとき初江は思わず微笑したが、この微笑が何を意味するのか、新治も、また初江自身も気づかなかった。少女は胸から下半身を覆うていた白い肌着を背後にかなぐり捨てた。若者はそれを見ると、雄々しく彫像のように立ったまま、少女の炎にきらめいている目をみつめながら、下帯の紐を解いた。
 このとき急に嵐が、窓の外で立ちはだかった。それまでにも風雨はおなじ強さで廃墟をめぐって荒れ狂っていたのであるが、この瞬間に嵐はたしかに現前し、高い窓のすぐ下には太平洋がゆったりとこの持続的な狂躁をゆすぶっているのがわかった。
 少女は二三歩退いた。出口はなかった。コンクリートの煤けた壁が少女の背中にさわった。
「初江!」
 と若者が叫んだ。
「その火を飛び越して来い。その火を飛び越してきたら」
 少女は息せいていはいるが、清らかな弾んだ声で言った。裸の若者は躊躇しなかった。爪先に弾みをつけて、彼の炎に映えた体は、火のなかへまっしぐらに飛び込んだ。次の刹那にその体は少女のすぐ前にあった。彼の胸は乳房に軽く触れた。『この弾力だ。前に赤いセエタアの下に俺が想像したのはこの弾力だ』と若者は感動して思った。二人は抱き合った。少女が先に柔らかく倒れた。
「松葉が痛うて」
 と少女が言った。手をのばして白い肌着をとった若者はそれを少女の背に敷こうとしたが、少女は拒んだ。初江の両手はもはや若者を抱こうとはしなかった。膝をすくめ、両手で肌着を丸めて、丁度子供が草叢のなかに虫をつかまえたときのように、それでもって頑なに身を護った。
「いらん、いらん。…嫁入り前の娘がそんなことしたらいかんのや」
「どうしてもいかんのか」
「いかん」 …少女は目をつぶっていたので、訓戒するような、なだめるような調子がすらすらと出た。「今はいかん。私(わし)、あんたの嫁さんになることに決めたもの。嫁さんになるまで、どうしてもいかんなア」
 新治の心には、道徳的な事柄にたいするやみくもな敬虔さがあった。第一彼はまだ女を知らなかったので、このとき女という存在の道徳的な核心に触れたような気がしたのである。彼は強いなかった。
 若者の腕は、少女の体をすっぽりと抱き、二人はお互いの裸の鼓動をきいた。永い接吻は、充たされない若者を苦しめたが、ある瞬間から、この苦痛がふしぎな幸福感に転化したのである。やや衰えた焚火は時々はね、二人はその音や、高い窓をかすめる嵐の呼笛が、お互いの鼓動にまじるのをきいた。すると新治は、この永い果てしれない酔い心地と、戸外のおどろな潮の轟きと、梢をゆるがす風のひびきとが、自然の同じ高調子のうちに波打っていると感じた。この感情にはいつまでも終らない浄福があった。
 若者は身を離した。そして男らしい、落ち着いた声音で言った。
「きょう浜で美(え)え貝ひろて、汝にやろうと思って、もって来たじえ」
「おおきに。見せてなア」
 新治は脱ぎすてた自分の着物のところへかえった。新治が着物を着だすと共に、少女もはじめて安らかに肌着を身にまとい、身支度をした。着衣は自然であった。
 若者は美しい貝を、すでに着了(きお)えた少女のところへもって来た。
「まあ、美しい」
 少女は貝のおもてに炎の反映をうつしてたのしんだ。自分の髪に挿してみて、
「珊瑚みたいやなあ。かんざしにでもならんかしら」
 と言った。新治は床に坐って、少女の肩に身を寄せていた。着物を着ているので、二人は楽に接吻した。(p.75~81)
 うーん、何度読んでもいいなあ。心に積もった塵埃が洗い流され、甘酸っぱいものがこみあげてきます。来てよかった。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-03-31 07:19 | 近畿 | Comments(0)
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