伊勢・美濃編(35):一身田(14.9)

 駅からすこし歩くとそこが一身田、往時の面影はあまり感じられない濠を撮影して、まずは中心となる寺院、専修寺を表敬訪問しました。
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 豪壮な唐門のわきに詳しい解説があったので転記します。
1.地名の由来と歴史
 "一身田"という地名は、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に特別にその身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたといわれ、その貴族とは「斎王」ではなかったかと考えられている。(律令制度である「三世一身の法」の中の、その身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたとする説もある。)
 人々がここに集落を形成したことを最初に示す記録は、一御田神社の棟札に嘉吉3年(1443)の記録があり、この時代には「一身田御厨」として伊勢神宮へ年貢を負担していた農村であったと考えられている。

2.真宗教団の伊勢進出と一身田寺内町
 全くの農村地帯であった一身田が大きく変わるのは、高田(栃木県)専修寺真慧がこの地に無量寿院(後の一身田専修寺)を建設してからである。
 真慧は、東海北陸地方の布教活動の中心として一身田に寺院を建設し、以後戦火で荒廃した高田専修寺にかわりここが高田教団の中心となった。
 寺内町とは「戦国時代、真宗寺院を中心に濠・堀などで防御された自治都市のこと」(『国史大辞典』 吉川弘文館)とされる。
 一身田寺内町の成立を明らかにする資料は残っていないが、一御田神社棟札のうち、天正20年(1592)の屋根吹替え棟札に寺内町がすでに成立していたことを窺わせるものがある。
 一般に寺内町の成立が16世紀半ばであることを考えると、一身田寺内町の成立は天正8年(1580)の伽藍炎上による復旧工事がきっかけと考えられている。

3.寺内町の発展
 東西500m、南北450mの環濠で囲まれた範囲で、環濠の幅は現在ではかなり狭くなっているが、堀の長さは江戸期の記録と完全に一致する。また、濠の内側には2~5mの堤があったようである。
 町の入り口は3箇所にあり、濠に橋が懸けられ、内側に門がたっていた。橋向町から寺内へ入る門は「黒門」といわれ、一身田の町の「惣門」で門の横に「番所」があったといわれている。現在高田幼稚園運動場入り口となっている門が黒門を移築したものといわれている。東町にある門で江戸方面からの入り口となるのが「赤門」で、朱塗りの門であったらしい。西町の入り口は「桜道之門」と記され、一般には「桜門」と言われている。これらの門は明け六つ(午前6時)に開門され、暮れ六つ(午後6時)に閉門されたと言い伝えられている。
 一身田寺内町には「寺内特権」らしいものはみられず、わずかに幕府から専修寺に渡された銀子を低利で融資を受けられることぐらいであった。また、一身田町民は全員が真宗高田派の門徒で、「同行」と言われる隣組に組織されていた。
 そのほか、専修寺には住民に時を知らせる「時の太鼓」が設置されていた。「太鼓門」といわれる専修寺東門の最上階に太鼓が吊ってあった。

4.近代の一身田
 明治以降一身田は大きな変化をとげた。一身田町の支配は本山から離れ、明治7年(1874)には桜門・黒門・赤門の三門が売りにだされ、寺内町も解体されていった。現在は、新しい建物が増え当時の面影を残す所は数少なくなったがそれでも環濠をはじめ、古い寺内町の雰囲気がよく残っている。


 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-04-20 06:27 | 近畿 | Comments(0)
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