伊勢・美濃編(51):明治村(14.9)

 三重県庁舎は、間口が54mに及ぶ巨躯で、玄関を軸に左右対称になっており、正面側には二層のベランダが廻されています。竣工は1879(明治12)年、中央政府から任命された県令たちは先を争うようにこうした洋風の新庁舎を建設したそうです。ちなみにこうした様式は当時の官庁建築に典型的なもので、地方行政を仕切っていた内務省庁舎にならったものとのことです。
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 二重橋飾電燈は、1888(明治21)年に設置されたドイツ製ネオ・バロック様式の電燈です。ちなみにエジソンが石清水八幡の竹のフィラメントを使って白熱燈の実用化に成功したのが1879(明治12)年、日本でもいち早く開発・研究に着手され、1887年には東京電燈会社による送電が始められました。当時は、その需要に応じて近くに発電所を設置し、送電していたのですね。
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 鉄道局新橋工場は1889(明治22)年に建てられたもので、国産鉄道建築物の初期例です。中には明治天皇・昭憲皇太后の御料車が展示してありました。
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 千早赤阪小学校講堂は、一階が雨天体操場、二階が講堂となっています。明治中頃から学校教育の中で体操が重視されはじめ、明治後期には体育教育が盛んに行われるようになりました。その際に体操の内容も亜鈴式からスウェーデン式へと変わり、広い体操場が求められるようになったため、こうした建物が各地につくられるようになりました。なお二階には奉安殿があるのですが、建築法規の関係で公開されていません。無念。
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 第四高等学校物理化学教室は金沢にあったもの。近代化を進める明治政府は自然科学を重視し、このような実験ができる教卓を備えた階段教室をつくらせたのですね。なお山田洋次監督の映画『母と暮せば』の冒頭で、長崎医科大学学生である主人公・浩二が被爆死した時に講義を聞いていたシーンはここで撮影されたそうです。明治村の生みの親、谷口吉郎のレリーフもありました。
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 東山梨郡役所の竣工は1885(明治18)年、正面側にベランダを廻らせ、中央棟と左右翼屋で構成する形式は、先の三重県庁舎と同様、当時の官庁建築の特徴です。なお当時の山梨県令藤村紫朗は大変開明的な人物で、地元に多くの洋風建築を建てさせており、それら「藤村式」と呼ばれています。山梨県を漫歩していると、けっこう出会えます。私も、旧睦沢小学校旧舂米(つきよね)学校旧津金学校などを見たことがあります。
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 清水医院は、中山道木曽の須原に生まれた清水半治郎が東京で医学を学んで帰郷し建てた病院。土蔵造りにアーチ型の入口や窓を組み合わせたユニークな建物です。なおこの清水医院には島崎藤村の姉園子も入院しており、彼女をモデルにした藤村の小説「ある女の生涯」では、須原の蜂谷医院とされて当時の様子が記されているそうです。
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by sabasaba13 | 2016-05-11 06:40 | 中部 | Comments(0)
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