伊勢・美濃編(56):明治村(14.9)

 亦楽(えきらく)庵は、京都の医家、漢学者であった福井恒斎が、1877(明治10)年頃に裏千家の茶室「又隠(ゆういん)」を模して自宅の庭に建てたものと伝えられています。そういえば、笠間にある北大路魯山人の山荘「春風萬里荘」にも、又隠を模した茶室「春風庵」がありましたっけ。茶人の憧れの的なのかな。
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 品川燈台は現存最古の洋式燈台です。1858(安政5)年に欧米の列強5ヶ国と結ばれた通商条約に従って各地に港が開かれましたが、その後に結ばれた改税約書で、外国船のために燈台や航路標識を設けることが取り決められました。江戸幕府ついで明治政府は燈台建設のための技術援助をフランス、イギリスに依頼、東京湾沿岸の観音崎野島崎、城ヶ島、品川の4つの洋式燈台がヴェルニーを首長とするフランス人技術者の手によって建設されました。レンズや金属部はフランスから輸入したため、風見の"西"はW(WEST)ではなくO(OUEST)になっています。
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 彼の後、灯台建設はイギリス人のブラントンに引き継がれ、彼が建てた菅島燈台の附属官舎が移築保存されています。そうそう、先日訪れたあの菅島です。明治初期の洋式燈台では、燈火の管理も外国人によって行われたため、付属の官舎も煉瓦造の洋式住宅が建てられています。正面にベランダを配置してあるのはコロニアル風ですね。
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 霧砲は、濃霧時には灯台の光が届きにくいため、火薬を爆発させ大きな音で船舶に陸地があることを知らせた大砲です。音達距離は2~3海里しかなく操作も不便だったそうです。
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 台場鼻潮流信号機は、潮流が急な関門海峡で、潮流の方向や速さを予測し船舶に伝えるために、竹子島に設置されたものです。
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 長崎居留地二十五番館は、明治期日本の造船業の発展に寄与したスコットランド出身のコルダーの住宅です。三方にベランダを廻らし、各室に暖炉を設けるなど典型的な居留地建築です。
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 神戸山手西洋人住居は、長崎居留地二十五番館と同じ頃の外人住居であるが、雰囲気にはかなり違います。平家建でゆったりとした長崎二十五番館が明治初期の植民地住宅的な雰囲気を残すのに対し、この神戸の建物はより本格的な西洋館になっています。これは、当時神戸が横浜と並んで貿易港として発展をみせており、建物にも洗練されたものが求められたためと考えられます。この住宅では、敷地が狭いという悪条件の中で建物をより良く見せるため、工夫がこらされています。ベランダの柱を整然とは建てず、場所によって二本、三本と並べ、その間隔もまちまちにすることにより、建物に変化を持たせ実際以上に大きく見せています。
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by sabasaba13 | 2016-05-16 07:38 | 中部 | Comments(0)
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