伊勢・美濃編(59):明治村(14.9)

 シアトル日系福音教会は、もともとアメリカ人の住まいでしたが、その後日系移民の住居となり、第二次大戦後には日系一世が礼拝や移住当時の苦難を語り合う福音教会として使われました。そういえば家具職人のジョージ・ナカシマは、シアトル出身の日系二世でしたっけ。彼もここを訪れたことがあるのかな。
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 次はブラジル移民住宅。1908(明治41)年の日米紳士協約により、アメリカへの新規移民が大きな制約を受けるようになると、代わって南米への移民が開始され、同年には781名の日本人が契約労働者として笠戸丸ではじめてブラジルへと渡航、サンパウロ周辺でコーヒー栽培に従事しました。その後、ブラジルへの移民は年々増加し、昭和初年の最盛期にはその数は年間二万数千人にも及びましだ。この建物は、ある日本人移民が、慣れないコーヒー栽培に苦闘を重ねながら、密林を拓いて造った家の一つです。
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 ハワイ移民集会所は、ハワイ島の町ヒロのワイルック川のほとりに、日本人牧師岡部次郎氏によって日本人のために建てられた教会でした。その後教会の役目を終えると、周辺の日本人の集会所となり、さらにヒロの英字新聞社の倉庫として使われました。床が高いのは、未だ開発の進まない土地で治水も不完全で、出水や湿気の心配があったと考えられます。入口に取り付けられた太鼓橋もそのためでしょう。
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 建物左手の鐘は「ペペケオ耕地の鐘」といい、移民たちは毎朝4時半にこの鐘で起床し、朝6時の開始の鐘から昼の30分の休憩をはさみ夕方4時半の終了の鐘まで10時間の肉体労働に従事した辛い記憶の鐘です。
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 なおハワイ移民は明治元年、新政府に無許可のまま在日ハワイ総領事ヴァン・リードによって送り出された「元年者」にはじまります。彼らは労働者不足の砂糖工業に就いたが、炎天下での長時間の作業のため苦労を重ねました。明治4年日布修好条約締結、明治14年ハワイ王朝カラカウア王来日などさらに移民交渉が進められ、明治18年からは26回にわたり官約移民が送られました。しかし不遇のなか契約期間の3年を迎えても貯蓄ができず残留するものがほとんどでした。

 以上三軒、日本人移民の歴史を語る、物言わぬ貴重な証言者です。こうした物件まで保存してあるのが明治村の懐の深さ、その見識に敬意を表します。
by sabasaba13 | 2016-05-19 06:35 | 中部 | Comments(0)
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