伊勢・美濃編(65):明治村(14.9)

 大明寺聖パウロ教会堂は1873(明治6)年に禁教が解かれた後、1879(明治12)年頃、長崎湾の伊王島に創建された教会堂です。フランス人宣教師ブレル神父の指導のもと、地元伊王島に住んでいた大渡伊勢吉によって建てられました。若い頃、大浦天主堂の建設にも携わった伊勢吉は、当時の知識をこの教会堂に注ぎ込んだのですね。内部こそゴシック様式ですが、外観は普通の農家の姿に過ぎず、いまだキリスト教禁制の影響を色濃く残しています。なお珍しいのは、「ルルドの洞窟」が室内に設けられていることです。1858年、フランス、ピレネー山麓の町ルルドのとある洞窟で聖母マリアが出現するという奇跡が起こり、 それにあやかって世界各地の教会で「ルルドの洞窟」の再現が行われました。通常、「ルルドの洞窟」を設ける時には、教会敷地の一部に岩山を作り、洞窟を掘るのですが、この大明寺教会堂では室内の押入れのような凹みに小さな鳥籠状の竹小舞を編み上げ、岩の様に泥を塗りつけて仕上げてあります。ちなみにこうした明治期の教会を見るのでしたら、五島がお薦めです。
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 なお本を読んでいると、旅をした場所に関連する内容にでくわすことがままあるのですが、今回は『ハンナ・アーレント 「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(矢野久美子 中公新書2257)の中にルルドが登場しました。ユダヤ人である彼女がフランスにあったギュルス収容所から脱走した後、ルルドに立ち寄りますが、そこで偶然に友人のヴァルター・ベンヤミンに再会し、それからの数週間を一緒に過ごしたのですね。1941年10月17日付のゲルショーム・ショーレム宛ての長文の手紙のなかで、アーレントはそのときのことを次のように書いています。
 六月半ばにギュルスから脱出したとき、私も偶然ルルドに行ったのですが、彼がいたので数週間そこにとどまりました。敗戦の直後で、数日後にはもう列車は動いていませんでした。家族や夫や子供や友人がどこにいるのか、誰も分かりませんでした。ベンジ〔ベンヤミン〕と私は朝から晩までチェスをして、新聞があるときには休憩時間に読んだものです。かの有名な引き渡し条項をふくむ休戦協定が公示される瞬間までは、何もかもそこそこうまくいっていました。それ以後はもちろん私たち二人にとって状況は厳しくなってきましたが、ベンジが実際にパニックに陥ったとは言えません。でも、ドイツ人を恐れて逃亡していた捕虜の最初の自殺の知らせが届きます。そしてベンヤミンは私に自殺について口にしはじめたのでした、この抜け道があるじゃないか、と。それにはまだ早い、という私の猛烈な説得にたいして、彼はいつも決まって、そんなことはけっして分からない、けっして手遅れになってはいけない、とくりかえしました。(p.70~1)
 フランスの出国ヴィザを持っていなかったベンヤミン(※彼もユダヤ人)は、非合法にピレネー山脈を越えて亡命しようとします。心臓に持病のあった彼は、時計を見ながら10分歩いては1分休むというペースを守りながら苦痛に耐え、どうにかスペイン側に辿り着くことができました。ところが、そこではすでに無国籍者が国境を通過できないというルールに変わっており、絶望したベンヤミンはその日のうちに大量のモルヒネを飲みました。時は1940年9月27日、享年48歳。(なお最近、暗殺説もあらわれたそうです)
by sabasaba13 | 2016-06-04 07:56 | 中部 | Comments(0)
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