伊勢・美濃編(74):明治村(14.9)

 私見では、この「原則」を達成したのが日露戦争後(1905~)でした。しかし日本は、これに代わる「原則」、あるいはより高次の「原則」を見つけることができませんでした。強い軍隊とほどほどの経済力はもてたけれども、それではそれを使って何をするのか? あるいはそれを使って日本をどういう国にするのか? もうそろそろ背伸びはやめて、身の丈に合ったやり方に変えてもいいのではないのか?
 この課題をペンディングとしたまま、「手続き」だけはずるずると保持されていきました。そして第一次世界大戦の勃発(1914)、この戦争は世界のあり方を激減させました。総力戦に勝ち抜くためのより一元的な国家体制の必要、ロシア革命に起因する民主化要求のうねり、そして独立を求める植民地の動きです。しかし日本はこうした変化に応じた新たな「原則」を打ち立てることなく、これまでの「手続き」を場当たり的に補修しながら、船長なきまま(元老はあらかた死んでいます)古い舵で荒海を漂っていきました。もっと強い軍隊を、もっとたくさんの植民地を、よおそろお! 世界恐慌(1929)、満州事変(1931)、日中戦争(1937)、第二次世界大戦(1939)、太平洋戦争(1941)といった状況の中で軍部が強権をふるうようになりますが、権力の分立・多元的構造は変わりません。"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」(あるいは「理念」)なく、ファシズム体制(一元的な全体主義)も打ち立てられず、強いリーダーシップもなく、大衆を犠牲にしながら戦い続けました。そこにあるのは、日本の利益でも国民の利益でもなく、己の地位の保全および己の属する組織の利益のみを追求する姿勢だけでした。
 敗戦後、軍事力の強化という目標は廃棄させられましたが、その代替である日米安全保障条約に抱かれながら、"大衆を犠牲にした経済成長"という「手続き」だけがあいもかわらず続けられます。そこには"日本はどうあるべきなのか/世界はどうあるべきなのか"という「原則」「理念」は影も形もありません。先述の対談にあった久野収氏の卓抜な表現を借りれば、「自浄の制度や能力を意に介さずに"向上"的堕落」を、今に至るまで続けています。
 こうしてみると、日本において近代という時代はまだ終わっていないのかもしれません。他国に冷や飯を食わせて陽の当たる場所に出るための経済戦争の時代、大衆を総動員して犠牲にして背伸びをしてひたすら経済を成長させる時代、そういう意味での近代にそろそろ幕を引く時ではないのかな。片山杜秀氏は『未完のファシズム』(新潮選書)の中でこう述べられています。
 この国のいったんの滅亡がわれわれに与える教訓とは何でしょうか。背伸びは慎重に。イチかバチかはもうたくさんだ。身の程をわきまえよう。背伸びがうまく行ったときの喜びよりも、転んだときの痛さや悲しみを想像しよう。そしてそういう想像力がきちんと反映され行動に一貫する国家社会を作ろう。物の裏付け、数字の裏打ちがないのに心で下駄を履かせるのには限度がある。そんな当たり前のことも改めて噛み締めておこう。そういうことかと思います。(p.333)


 本日の一枚、聖ザビエル天主堂です。
c0051620_635453.jpg

by sabasaba13 | 2016-06-17 06:36 | 中部 | Comments(0)
<< 伊勢・美濃編(75):帰郷(1... 伊勢・美濃編(73):明治村(... >>