江戸東京たてもの園編(11):(14.9)

 大きな車寄から玄関に入り、彼が殺害された二階へとあがってしばし物思いにふけりました。まず彼はなぜ殺されたのか。今読んでいる『血と涙で綴った証言 戦争』(朝日新聞テーマ談話室・編 朝日ソノラマ)の中に、下記の一文がありました。
 二・二六事件で惨殺された髙橋是清蔵相は、反乱軍に最も憎まれていた。「説が正しいのみならず、言うとき非常な激語を放つ。12年度予算を組む最中に、陸軍をもっとも強硬に抑えたのみならず、いまアメリカと戦争できるなんてそんなことを考えるばか者が陸軍におるのかとか、荒木貞夫陸軍大臣が中将から大将になると、こんど大将になったのか。はじめから大将だとばかり思っていたよ、と子供みたいな扱い方で…」(大蔵省編『大蔵大臣回顧録』から、斎藤虎五郎氏の証言)  (下p.103)
 うーむ、やはり陸軍の逆恨みが最大の原因だったようです。そういえば彼は参謀本部の廃止も主張していました。
そして時代の大きな転換点となった二・二六事件とは何だったのか。いくつかの分析を列挙しておきます。
『日本近代史』 (坂野潤治 ちくま新書948)
 戦後の後発国でたびたび見られた軍事クー・デターの多くは、何らかの形で国民的、民衆的支持を得ていた。しかし、二・二六事件はそういう国民的支持を欠いた、陸軍青年将校の宮中革命であった。彼らは、軍事クー・デター決行の後に国民に訴えたのではなく、「君側の奸」を倒して天皇個人に訴えたのである。(p.416)

『講座 日本歴史10 近代4』 (東京大学出版会)
『「大日本帝国」の崩壊』 (木坂順一郎)
1932年の五・一五事件後に成立した斎藤実内閣から鈴木貫太郎内閣にいたる十三代の挙国一致内閣の実態は、宮中グループ・軍部・官僚・独占資本家・寄生地主・政党という権力ブロックを構成する六つの集団(各集団内部に多くの派閥やグループが結成され、それらが複雑に結びついていた)の不安定な同盟関係を基礎とする寄合世帯にすぎなかった。そして二・二六事件後に軍部が主導権を握ったと安易に主張する論者が多いが、十五年戦争期に一貫して国家権力の核心をにぎり、政治の主導権をにぎっていたのは天皇と宮中グループであり、軍部の主導権も天皇と宮中グループの暗黙または明示の同意と支持なしには確保できなかった。したがって二・二六事件以後の事態は、天皇・宮中グループと軍部との主導権分有という不安定な状態にあり、天皇と宮中グループは軍部が落ち目になった場合には、軍部から主導権をとりかえしうるだけの主体的力量を保持していたとみるべきであろう。この主導権分有という不安定な状態こそ、権力ブロック内部の主導権争いを激化させ、一元的戦争指導体制の確立を不可能にした大きな要因であり、敗戦直前に天皇と宮中グループが本土決戦を叫ぶ軍部主戦派を押えて「終戦」を実現することを可能にしたのである。(p.306)

『日本の百年7 アジア解放の夢』 (橋川文三編著 ちくま学芸文庫)
 当時、獄中にあった河上肇は、思想検事とのあいだにつぎのような問答をかわした。…
 問 ヨーロッパではファシズムがだんだん強くなって来ているが、それをあなたはどうみているのですか。日本におけるファシズムの勢力というような問題についてもどう考えていますか。
 答 日本ではファシズムを抑えるという形でファシズムを進展させてゆくことができる現状だと思います。たとえば最近の二・二六事件に対する弾圧-関係者に対する比較的重い処罰等々-はいまの政権がファシズムに対立するものであるかのごとき幻想を民衆に与える。いずくんぞ知らんいまの政権自体がすでにファシズム的傾向を十二分に備えているのです。(略) 急進派に属するファシストの連中はとうとう二・二六事件ほどの大騒ぎを演じてみせました。ところがあれほどの大騒ぎが演出されたにもかかわらず、ブルジョアジーが少しも驚かないのは、私どもから見るとよほど特徴的なことです。」(河上肇 『自叙伝・四』 1952) (p.215~6)

『日本人の「戦争」 古典と死生の間で』 (河原宏 講談社学術文庫)
 当面、この暴挙(※二・二六事件)に国民からの鋭い非難を真っ向から浴びた軍部が考えたことはなんだったか。とりうる方策は、その批判の視線を外に転化すること、外戦を起こして手柄をたて、非難を称賛に変えること以外にない。事実、事件から僅か一年四ヵ月後の37年7月、盧溝橋事件に端を発した戦いは日中の全面戦争へと発展した。軍は二・二六事件の記憶だけからも、引くにひけないものとなっていた。なぜなら、その根因をなす社会構造の改革にはなんら手がつけられていなかったからである。
 日中戦争は二・二六事件の後遺症を引きずりながら、なお国内改革に着手することなくそれを解消し、その記憶を抹殺しようとして起こされたといってよい。時の首相近衛文麿が「国内における反乱や革命にくらべれば、中国との戦争の方がまだましだと考えた」というヒュー・バイアスの指摘は的確だった。
 このような観点からすれば、日本の戦争は日中・太平洋戦争共に、その根本の動機は土地獲得衝動に突きうごかされたものと見ることができる。あるいは日本の帝国主義は、後に述べる如く空腹の帝国主義だったといえるかもしれない。それは"革命よりは戦争がまし"という選択から導きだされる当然の性格だった。(p.109~10)

『体系・日本現代史1 日本ファシズムの形成』 (日本評論社)
 こうして二・二六事件は、軍部主流が、皇道派グループによるクーデターの威圧効果を利用し、対英米協調路線を圧服し去り、あわせて皇道派の急進的異端分子を一掃することによって、発言力を圧倒的に強化し、華北分離工作の進行とあいまって、対外膨張とそのための「高度国防国家」建設をさらに大きく前進させる画期となった。日本ファシズムは、上述の対外路線の分裂・対抗・転換との関連づけでいえば、アジアモンロー主義的路線の漸進派的な主流が中軸となり、一方で急進ファシズム運動をこの路線の尖兵ないし走狗として活用・利用し、他方で対英米協調路線を屈服させたうえで同調させることによって、形成されたのである。(p.31)
 二・二六事件とは、宮中グループを排除するために陸軍皇道派が決行したクーデター、というのが定説のようです。統制派もこのクーデターを支持していましたが、昭和天皇の激怒により鎮圧側に豹変。そしてクーデターの再発をちらつかせながら、宮中グループを沈黙させ、革新官僚たちと協力しながら総力戦体制を構築していく端緒となった事件、と私は考えています。『血と涙で綴った証言 戦争』(朝日新聞テーマ談話室・編 朝日ソノラマ)によると、東条英機が"戦さというものはね、山の上から大石を転すようなものだ。最初の50センチかせいぜい1メートルぐらいならとめることもできるが、2メートル、5メートルともなればもう何百人かでなければとめることはできない"と言ったそうです。(上p.196) もしかするとこの時点ではまだ大石は1メートルぐらいしか転がっていなかったかもしれませんね。今は何メートルぐらいなんだろう。それを見極めるのが知性だと思います。
 なお『昭和史発掘』(松本清張 文春文庫)にこんな記述がありました。
 歩一、歩三の青年将校たちが相沢公判の対策協議場としていた竜土軒は、日本文学史上にゆかりのある店だった。明治三十七、八年ごろ、麻布新竜土町にできたこのフランス料理店は、田山花袋、島崎藤村、小栗風葉、柳田国男、近松秋江、それに詩人の蒲原有明などが集まった。店の名にちなんでその会合を「竜土会」と称した。近松秋江は、「自然主義は竜土会の灰皿から生れた」といっていたくらい、当時の若い文学者の巣であった。そのほか、国木田独歩、岩野泡鳴なども来たし、平塚雷鳥も紅一点として顔を見せた。またのちには、北原白秋、木下杢太郎、上田敏、小山内薫などが集まり、彼らの「パンの会」の屯ろ場所でもあった。明治末から大正の初めにかけての竜土軒は、こうしたヨーロッパ自由主義にめざめた近代日本の精神を生んだのが、昭和のこの頃になると、その近代的な自由主義に反逆する若き軍人の集まり場所になり、秋江の言葉をもじれば「竜土軒の灰皿から二・二六事件の謀議が生れた」のは皮肉である。(⑤p.370)

 余談ですが、厠上本の『寒村自伝』(荒畑寒村 岩波文庫)を読了したので、『高橋是清自伝』(中公文庫)を読み始めました。闊達な語り口と波乱万丈の人生、これは面白い。
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by sabasaba13 | 2016-07-17 06:44 | 東京 | Comments(0)
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