江戸東京たてもの園編(13):(14.9)

 そして東ゾーンへ、ここは昔の商家・銭湯・居酒屋などが建ち並び、下町の風情を復元しています。まずは村上精華堂、解説板を転記します。
 村上精華堂は、台東区池之端、不忍通りに面して建っていた化粧品屋である。奥の土間で化粧品の製造を行い、卸売りや、時には小売りを行っていた。創業者の村上直三郎氏は、アメリカの文献を研究して化粧品を作ったと言われている。そのせいか、建物はイオニア式の柱を並べたファサードをもち、西洋風のつくりとなっている。この建物は関東大震災後、東京市内に多く建てられた「看板建築」の一種であり人造石洗い出し仕上げである。
 1942年(昭和17)頃、村上精華堂の本店が浅草向柳原に移り、この建物は支店となった。
 1955年(昭和30)頃には化粧品屋としては使われなくなり、1967年(昭和42)、二代目の村上専次郎氏により、寄贈者の増渕忠男氏に譲渡された。
 おうっ、これぞ看板建築。イオニア式柱が無秩序にアナーキーに乱立するファサードに、「寄らんかい」という店主の魂の叫びを感じます。ところで「看板建築」とは何ぞや? 実は前出の藤森照信氏が提起された建築様式で、『東京たてもの伝説』(藤森照信・森まゆみ 岩波書店)の中で、御自らこう語られています。
 《看板建築》は関東大震災のあとの東京の商店に、防火対策として登場した建築様式です。関東とその近辺の東日本に分布していますが、関西にはほとんど見られません。タイル貼りのもの、銅板貼りのもの、モルタル塗りのもの。仕上げ材はいろいろありますが、すべてに一致している特徴は、建物の正面が平板で、全体が看板となっているような外観にあります。(p.203~4)
 なお『看板建築』(三省堂)の中で、藤森氏は次のような鋭い分析をされています。
 近代の建築の歩みの中で工場建築や産業施設の果たした決定的影響についてはすでに語られている。大きなスケール、無装飾な壁、鉄の駆使、合理性や機能性や力動性、こうした工場建築の性質は近代の機能主義建築の本質を形づくることになる。
 しかし、ここで改めて考えてほしいのは、近代の工場が大量の商品を製造したということは、実は、その大量の商品を売るための商店が発達したことを意味する、ということ。
 つまり、工場と商店は実は二人三脚をしながら近代という時代を作りあげてきた。
 にもかかわらず、皮肉なことに、工場と商店は建築的表現としては全く反対の方向をめざさざるを得なかったし、実際そうなった。
 工場の建物に求められたのは、均質で大量の生産力の確保ということであり、そこから自ずと合理的で機能的な表現が生まれてくる。一方、そうした工場からトラックで送り出された商品はどのように人々に手渡されるかというと〈商品経済の発達〉という環境の中で手渡されることになる。具体的に言うと、大量の商品を大量の人々に手渡す場としての商店は、いかに多くの客の目を引くかが勝負となり、そこから自ずと、過剰に飾り立てられた個性的な表現が生まれてくる。工場とは正反対な建築にならざるをえない。
 過剰で個性的な表現-これが前近代と近代の商店の二つを分けるポイントになる。
 蔵造や出桁造といった前近代に成立した商店があそこまで似た姿をしていたのに、近代になってから誕生した洋風商店、バラック商店、そして看板建築がなぜあそこまで派手でメチャクチャで乱暴なまでに変化に富んでいるかというと、その過剰で個性的な表現こそが近代の商店の生命だったからである。
 当然のように、近代商店は、精神の深みにうったえるような表現は愚の骨頂で、街ゆく人々の目玉の表面をヒッパタイテ刺激を与えるような消費的デザインに傾くし、また、とにかくまず人目をうばわなくては何もはじまらないからファサードを重視するようになる。
 消費的なデザインとファサードの重視-これはもうそのまま看板建築の性質である。
 逆にいうと、東京は、看板建築の誕生によって、近代という名の〈消費の時代〉へ、街ぐるみ突入したのだった。
 そして、二度と、蔵造や出桁造の落ち着いた街に戻ることはない。(p.209~10)

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by sabasaba13 | 2016-07-24 08:39 | 東京 | Comments(0)
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