秩父編(2):(14.10)

 まずは外観から拝見。下部に大谷石を使用し、水平線を強調しているところは、フランク・ロイド・ライトのテイストを感じます。さまざまな形の窓が多用されていて、全体的に軽やかな印象を受けました。車寄せが武骨で無愛想すぎるかな。200円を支払って中に入ると、窓の洒落た装飾に目を引かれます。
c0051620_65925.jpg

 時代を感じさせる渡り廊下を歩いて工場棟へ、明かり取りのための三角屋根を頂いた昔ながらの工場です。中には往時の機械などが展示してありました。
c0051620_6592079.jpg

 おっ「秩父事件130周年記念事業」というポスターがありました。もう130年もたつのですね。日本近代の転換点とも言うべき重要な事件だと考えており、おりにふれていろいろと調べたり、関連の史跡を訪れたりしています。岩波日本史辞典より引用します。
 1884年秩父地方やその周辺の負債農民と地元の自由党員らが結成した秩父困民党による武装蜂起。秩父騒動・秩父暴動とも。自由民権運動期の最大の激化事件であり、また近世以来の負債弁済慣行に基づく農民騒動とも評価される。松方デフレ政策や恐慌により、関東・中部地方を中心に生糸価格が暴落、学校や新道工事のための負担増・地方税増税で金融会社・高利貸に対する負債を抱える農民が、返済延期・金利引下げ・納税延期・減税などを求めて請願・騒擾を繰返し、村ごとに困民党を結成、自由党に入る者も増えた。やがて30か村で総代を選び、84年9月には秩父困民党として組織され、田代栄助・加藤織平・井上伝蔵・菊池貫平らを幹部として在地オルグ100名も活動を始めた。
 合法的な請願・交渉が行詰り、また下部の突上げもあり、幹部の反対を押切って、10.26下吉田村(現秩父市内)粟野山会議で11.1蜂起を決定した。秩父郡風布村ではその前日から行動を開始、群馬県西南部の農民も参加した。11.1下吉田村椋(むく)神社で総理田代・副総理加藤・参謀長菊池・会計長井上以下の役割と軍律を発表。銃・刀・竹槍を備えた2個大隊の武装組織を結成して蜂起、小鹿野町・大宮郷(秩父市内)から皆野村に達した。途中では高利貸・戸長役場・郡役所などを襲撃、借金証文・借金台帳などを焼払い、警官隊・憲兵隊・鎮台兵と衝突。当初から武装行動に消極的であった田代・井上ら幹部は11.4皆野の本陣から逃亡したが、120人の分遣隊は菊池が総理となり、石間村から群馬県山中谷・長野県南佐久郡に至り、9日東馬流 (まながし)(現小海町内)で高崎鎮台兵・警官隊に攻撃され、解体した。参加者約1万人、処罰者は4000人以上、戦死者23名。田代は11.14逮捕され85.5.17熊谷刑場で死刑。加藤・落合寅市・高岸善吉・坂本宗作の4名も死刑。井上は逃亡。菊池は死刑判決後、大赦により無期徒刑、1905年恩赦で出獄した。
 私思うに、秩父事件とは、進行しつつある近代(優勝劣敗の競争社会)化に対し、「弱者を助けない強者には制裁を加えてよい」という前近代の社会通念(モラル・エコノミー)に基づいた抵抗でした。しかし警察と軍隊(!)の前に敗れ去り、こうした抵抗は消滅しました。言うなれば、秩父事件は近代化に対する最後の抵抗でした。以後民衆は、他者を蹴落とすためにひたすら勤勉に働くことになります。しかし(当然ですが)ほとんどの民衆は強者・富者になれず、心には不安感・孤立感・劣等感が宿ることになります。それらを解消するために、ナショナリズムと差別が、民衆の間に浸透していったのではないでしょうか。強大な国家の一員であると意識して、自尊心と一体感を感じるナショナリズム。弱者(女性・被差別部落・アイヌ・沖縄人・朝鮮人・中国人)を見出すことによって、優越感・満足感を充足させる差別。
 ふたたびナショナリズムと差別が猖獗を極めそうな悪寒に襲われる現今、その根底にあるのはやはり人々の中に音もなく浸潤する不安感・孤立感・劣等感だと思います。モラル・エコノミー的なるものの再構築はできないものでしょうか。
 なお秩父近辺の関連史跡は以前にめぐったことがあるのですが、拙ブログをはじめる前でしたので旅行記としてはまとめてありません。波久礼にある秩父事件の顕彰碑と追悼碑、最後の激戦地・馬流については記事がありますので、よろしければご笑覧ください。

 本日の五枚です。
c0051620_6594324.jpg

c0051620_70895.jpg

c0051620_702925.jpg

c0051620_704941.jpg

c0051620_71794.jpg

by sabasaba13 | 2016-08-05 07:02 | 関東 | Comments(0)
<< 秩父編(3):(14.10) 秩父編(1):(14.10) >>