京都錦秋編(14):遭難之碑(14.11)

 三年坂、そして二年坂へ、ここから見る八坂の塔は絵になります。私の大好きな京の風景です。そして東大路通に出てバスに乗って東山三条で下車。地下鉄東山駅へと向かいますが、途中にあったマクドナルドの看板は、景観への配慮からか白文字でした。古川町商店街は、以前に訪れたことがあるのですが、地元に密着したざっかけない商店街です。錦市場より良い買い物ができると思いますけれどね。そして東山駅から地下鉄東西線に乗って京都市役所前駅で下車、構内にはユニークなポスターがありました。
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 地上に出て高瀬川沿いに北上し、がんこ二条苑をめざします。途中にあったのが二つの「遭難之碑」、解説板を転記します。
佐久間象山大村益次郎遭難之碑

 元治元年(1864)七月十一日、木屋町通を馬に乗って通りかかった佐久間象山は、刺客に襲われて斬られ絶命した。
 象山は信濃(長野県)松代藩士で、洋学・砲術を学び、開国論を唱え、勝海舟・坂本龍馬・吉田松陰ら多くの俊才を教育した。
 この時は幕府の命で上洛し、海防の相談に与るとともに公武合体策をすすめていた。時は池田屋事件の直後でいきりたっていた攘夷派は、学者象山の説をも受け付けなかった。
 それから五年後の明治二年(1869)九月四日、木屋町通の東側にあった宿所で大村益次郎が刺客に襲われて斬られ、その傷がもとで同年十一月五日大阪の病院で没した。
 益次郎は周防国(山口県)長州藩士、家は医者であったが、医学とともに西洋兵学を学び、兵学の第一人者となって幕末の長州軍を率い、また戊辰戦争の指揮に活躍した。ついで、明治政府の兵部大輔となり、近代兵制(国民皆兵など)の創立に努力した。そのため、不平派士族に襲われた。
 思えばこの二人を筆頭に、幕末から維新にかけて多くの逸材が兇刃に倒れました。思いつくだけでも、井伊直弼、ヘンリー・ヒュースケン、吉田東洋、清河八郎、坂本龍馬、中岡慎太郎、大久保利通、広沢真臣。無名の士を入れればその数はどれほどになるのでしょう。その後も、森有礼、星亨、原敬、安田善次郎など間歇的にテロルは起こりますが、昭和恐慌を機にまた猖獗を極めます。浜口雄幸、井上準之助、団琢磨、犬養毅、永田鉄山、高橋是清、斎藤実、渡辺錠太郎… こうしたテロリズムの根底に流れるのは、敵対する者、異端なる者の人権の軽視だと思います。異を唱えると人権を脅かすぞと恫喝しながら、集団を一つにまとめ上げ(強制的同質化=グライヒシャルトゥング)、その能力を最大限に発揮させようとする。幕末・維新の変革も、急速な近代化も、総力戦の遂行も、そして戦後の高度経済成長も、われわれ日本人はそうやって達成してきたのではないでしょうか。
 さすがにテロルや直接的暴力には及んでいませんが(たぶん)、現状でも国家権力の政策に異を唱える方々の人権を蹂躙することが平然と行なわれています。例えば、自民党・文部科学部会長を務める木原稔衆院議員のツイート内に貼られたリンク先に「学校教育における政治的中立性についての実態調査」があるそうです。"「子供たちを戦場に送るな」というのは、政治的中立を逸脱している。そんな発言をした「先生方」は自民党に報告してほしい"という呼びかけです。批判が殺到したために「子供たちを戦争に送るな」から「安保関連法は廃止にすべき」という文言に変わったそうですが、そうした発言を、いつ、どこで、だれが、何を、どのようにしたかを報告してほしいという要請は変わっていないとのこと。陰湿な恫喝によって反対意見を封じ込める、思想・信条・表現の自由を蹂躙して愧じるところがない、こういう政党を政権与党として君臨させているところに日本人の知的劣化と知的怠惰を痛感します。安倍伍長率いる自民党のお歴々は、車寅次郎のあの名セリフを座右の銘とされているのでしょう。
 人権だかジャンケンだかしらねぇが、おまえらにそんな洒落たものはねぇんだ。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2016-09-13 07:31 | 京都 | Comments(0)
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