虐殺行脚 埼玉・群馬編(7):熊谷寺(14.12)

 それではここ熊谷で、1923年9月に何が起きたのか、いや、誰が何をしたのか。実は「9月、東京の路上で」という素晴らしいブログが詳細を紹介してくれていますので、ぜひ引用したいと思います。
1923年9月4日夜/埼玉県熊谷市 地方へと拡大する虐殺

 「熊谷寺では、生から死まで見ました。寺の庭では1人の朝鮮人を日本人がぐるっと取りまいたグループが、5つほど出来ました。そして殺すたびに『わあ、わあー』『万才、万才』と喚声があがるのです」(関東大震災60周年朝鮮人犠牲者調査追悼実行委員会編『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。

 主に東京でおきたことを主にとりあげると最初に書いた当ブログだが、今回と明後日の2回だけは、埼玉県でおきた事件をとりあげさせて頂きたい。
 地震の被害が少なかった埼玉県だったが、東京から流入する避難民を通じて、朝鮮人暴動の流言は広まっていったという。「今、上野の山で日本の陸軍と朝鮮人で内乱が起きちゃってね」(引用同上)といった言葉も、ぼろぼろの姿をした避難民の口から聞くと切迫した信憑性を帯びたのである。
 さらに、この流言にお墨付きを与えたのが、例によって行政である。埼玉県は2日、「東京に於ける震災に乗じ暴行をなしたる不逞鮮人」が埼玉に入ってくる可能性があるから各町村で在郷軍人会などと協力して有事に備えよ、という趣旨の通達を各郡町村に発する。これに応じて、各地に自警団が結成された。
 あわせて県は、県内に避難してくる朝鮮人を実際に川口で検束し、蕨に移送。その北への護送を各町村の自警団にゆだねた。各町村の自警団が少数の警官とともに駅伝式に隣町まで護送するのである。目的地は群馬県の高崎連隊だったのではないかと見られているが、いまだにはっきりしないそうだ。残暑の厳しいなか、家族連れも含む朝鮮人たちは、徒歩で休憩もなく延々と歩かされた。途中、逃亡した者が合わせて10数人、殺害されている。
 蕨から大宮、桶川と彼らは歩き続け、町から町へとリレーされて、熊谷に着いたのは4日の夕方、蕨から50キロを30時間かけて歩き続けた末のことだった。市内中心部に入るあたりで、柳原の自警団から熊谷町の自警団に引き継ぐはずだったが、現場の状況はそれまでの町や村とは異なっていた。
 熊谷町中心部は、数千とも思われる人々に埋め尽くされていた。当時、急速に膨張しつつあった熊谷の人口は約2万3000人。一軒に1人、自警団に参加せよという呼びかけは、不必要な数の人々を街頭に呼び寄せてしまっていた。彼らは東京の仇を打とうと殺気立った烏合の衆と化している。
 群衆は、引き継ぎポイントに現れた朝鮮人の群れにどっと殺到する。「家の叔母さんだ、兄貴だ、いとこだのをこの朝鮮人が殺っちゃったんだから、家を焼いちゃったんだから、このやつらは敵だ」(引用同上)とこれをあおる者もいたという。20人以上がここで殺害された。
 「中心部入り口における殺戮に加わった民衆は、その昂奮をそのまま市街地へ持ち込んだ。彼らは血がついた刀、竹槍、棍棒を持って逃げた朝鮮人を探し、みつけ出しては殺す。そこに自警のかけらは少しもない」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)。
 逃げずに縄で縛られ、おとなしく連行されていく者も容赦なく暴行を受けた。「その時私は、眼の前で日本刀を持って来た人が、『よせ、よせ』というのをふりきって、日本刀で朝鮮人を斬ったのを見ました。…こんな時に斬ってみなければ切れ味がわからないといって、斬ったのだそうです」(『かくされていた歴史、増補版』。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)。竹やりを背中に何本も刺された朝鮮人も目撃されている。
 彼らが最終的にたどり着いたのが深夜の熊谷寺の境内だった。ここで残りのすべての朝鮮人が「万才、万才」の声のなか、殺害されたのである。
 熊谷寺は、かつて熊谷直実が出家生活を送っていた庵のあとに開かれた浄土宗の寺である。熊谷直実とはもちろん、平家物語の「敦盛最期」で、わが子と同じ年頃の平敦盛の首を泣く泣く斬った(「泣く泣く首をぞ掻いてける」)、あの熊谷だ。彼は後に、その懺悔から出家し、法然の弟子となった。
 熊谷市在住の研究者、山岸秀は、殺害された朝鮮人の数を、40~80人ほどと見ている。「殺された人数すらはっきりとわかっていないのだから、名前、年齢、性別、職業、出身地などは何も残されていない」。
 それにしても、息を呑むほかないような惨劇である。焼け出された人々が、過剰防衛意識ややり場のない怒りから暴力的になるというならまだ分かる。だが被災地から遠く離れた人々がなぜ、ここまで残酷になれたのだろうか。山岸秀は、前掲書のなかで、流入した新住民の過剰な忠誠心、同調意識などを背景として指摘しているが、どうもすっきりしない。しかし、私たちが心にひっかかったのは以下の一節だった。
 「自警団、自警団員の中には、自警を超えて、虐殺、朝鮮人いじめを楽しむ者も出てきた。前述で見たような殺し方は、もはや自衛のためのものではなく、社会的に抑圧されていた者が、その屈折した心の発散を弱者に向けるようになったものである」「危険な朝鮮人ではないということを十分に知った上での暴虐であり、自分たちのストレスの発散を求めた、完全な弱い者いじめになっている」「対象は安全に攻撃できる、自分より弱いものであればいいということになる」(『関東大震災と朝鮮人虐殺』)
 これは熊谷の事件に特定したものではなく、自警団一般について書いた文章である。むしろ、ここで描かれているのは、特定の時代や国、地域などと関係ない、人間が普遍的にもつ醜さにすぎないといえばそれまでだ。だが、2013年9月の私たちにとって、妙にどこかで見た光景に思えるのはなぜだろうか。少なくとも私たち「知らせ隊」は、こんな光景を見たおぼえがある。
 話を1923年9月の熊谷に戻す。町のあちこちに転がった遺体は、暑いなか、すぐに激しい腐臭を発するようになる。野犬が食いあさる。放置されたままで誰も近づかなかったこれらの遺体を黙々と荷車に積み込み、野焼きしたのは、一人の火葬人夫と、町の助役である新井良作だけだったと、山岸は書いている。その後、熊谷市の初代市長となった新井は、1938年に朝鮮人犠牲者の供養塔を建立。今も供養塔は守られ、毎年、熊谷市主催で供養が営まれている。
 熊谷と同じ5日に起こった本庄市(100人前後殺害)や神保原村(現上里町。42人殺害)の事件をはじめ、埼玉県内で殺された朝鮮人は、山岸のまとめによれば200人を超える。それらを裁く公判はその年の11月には判決となったが、懲役4年を最長として、ほとんどが半年か1年程度だった。証人として出廷した本庄署の巡査は「検事は虐殺の様子などに触れることは努めて避けていたようで、最初から最後まで事件に立ち会っていた私に、何ひとつ聞こうとはしなかった」と述懐している(『大正の朝鮮人虐殺事件』)。不真面目な裁判だったようだ。
 また、これだけの惨事の引き金を引いたのは、あの県の通達であることは明らかであり、そのことは事件直後からメディアでも指摘されていた。だがこれに対して、当時の県内務部長は「アノ当時ノ状態としてアレ丈の事に気づいたのは寧ろよい事をしたとさへ思つている」(「東京日日新聞」1923年10月24日付。『関東大震災と朝鮮人虐殺』より重引)と居直るだけだったという。責任はどこかに消えてしまったわけである。

参考文献:山岸秀『関東大震災と朝鮮人虐殺 80年後の徹底検証』(早稲田出版)、北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房)。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-11-11 06:29 | 関東 | Comments(0)
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