虐殺行脚 埼玉・群馬編(12):児玉町旧配水塔(14.12)

 なお本文を執筆中に、写真集『給水塔』(比留間幹 リトルモア)に出会えました。私はわりと古い、あるいはユニークな造形の給水塔にこだわって訪問していますが、比留間氏は周囲の風景と一体化した給水塔を撮影されています。氏の言葉です。
 給水塔があたえる印象の中核は、唐突感と異物感、そして孤立感。予想だにしないよう大きさと形状で突如、町なかに現れるその姿は、言いようのない不条理の塊です。煙を吐く煙突の饒舌さ、灯台の持つ立ち位置や役割のわかりやすさ、送電線鉄塔のような明確な連続性もなく、ただただ違和感に溢れ唐突にそして静かにその場にあります。人々の営みの傍らに、寄り添うようにありながら、周囲に馴染むことはなく、その体躯をもてあまし、身の隠し場所どころか置き場すらおぼつかず、なすすべなく不器用にその場に立ち尽くす。それは、自らの存在にうまく馴染めず、周りや自分自身との折り合いを付けきれない者たちの鏡像であり、孤独感や絶望感などのうずたかき堆積物のようにすら見えてくるのです。
 夕暮れの給水塔。日中の光の下、異物感に溢れていた姿が黄昏の中で風景へと溶け出すその一瞬。なぜか強い懐かしさ、郷愁にも似た感情が沸いてきます。うまくは説明出来ないその理由の中にこそ、人を引きつけて離さない何かが潜んでいるはずです。
 なるほどねえ、周囲に馴染めない孤高の巨躯か、そういう見方もできるのですね。言い得て妙です。私もこれからは、周囲の光景を含めて撮影をしようと思います。
 なお、本書では給水塔の写真を撮り続けた先駆者として、ベッヒャーという名前が挙げられていました。ほんとに勉強不足ですね、あわててインターネットで調べてみると、近代産業の遺物的な建造物写真を撮ったベルント・ベッヒャーとヒラ・ベッヒャーという夫婦カメラマンのことでした。二人の薫陶を受けた一群の写真家たちを、ベッヒャー派と言うそうです。給水塔マニアとしては食指が動きます。「セブンネットショッピング」で調べてみたら、残念ながら絶版。「日本の古本屋」で検索したところ…ありました。お値段は13,000円。うーむ、ちょっと値が張るなあ。でも誰かが"給料の二割は本に使え"と言っていたしなあ。いま思案中です。

 本日の一枚です。
虐殺行脚 埼玉・群馬編(12):児玉町旧配水塔(14.12)_c0051620_6285748.jpg

by sabasaba13 | 2016-11-18 06:29 | 関東 | Comments(0)
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