虐殺行脚 埼玉・群馬編(18):成道寺(14.12)

 憎まれ、呪われ、責任を問われなければ、また同じことを繰り返す。自明の理です。それでは加害者たちは憎まれ、呪われ、責任を問われたのか。違いました。まず国家権力は、こうした事件の本質をできうる限り隠蔽し、その実態を軽微なものに見せかけ、さらには責任の追及も表面的・微温的なものでした。『日本の歴史14 明治時代中期から1920年代 「いのち」と帝国日本』(小学館)の中で、小松裕氏はこう述べられています。
 関東大震災下の朝鮮人・中国人虐殺は、まぎれもなく日本歴史の一大汚点である。しかし、さらに問題であったのは、その後の日本政府の対応であった。虐殺の真相糾明を妨害したばかりか、国際世論の批判を緩和させようと、朝鮮人による大逆事件を仕立てあげたのである。
 1923年(大正12)9月5日、臨時震災救護事務局警備部打ち合わせが開催され、暴走する自警団の取り締まりに加え、国際的非難を恐れての宣伝の方針が決定された。それは、「赤化日本人」と「赤化鮮人」の煽動があった事実を強調することと、朝鮮人の被害を少なく、日本人の被害を多く宣伝するというものであった。こうして、関係者に対する口止めと隠蔽工作が始まる。
 だいぶあとのことになるが、野戦重砲兵第一連隊第六中隊の久保野茂次は、11月28日に、中隊長から〈震災の際、兵隊が沢山の鮮人を殺したそのことにつきては、夢にも一切語ってはならない〉と訓示されたことを日記に記している。
 政府は、朝鮮人の犠牲者数を、内務省警保局が231名、司法省が233名(加えて東北・沖縄出身の日本人59名が犠牲になったと)、朝鮮総督府が832名と発表した。朝鮮から来た金承学(キムスンハク)を代表とする罹災同胞慰問団は、官憲の妨害や、新聞社、一般民衆の非協力のなかで調査を進め、最終的に6661名の同胞が犠牲になったと発表した。こうした政府の姿勢は、政府に協力的であった右翼の内田良平さえ批判していたのである。
 それに加えて政府は、自警団に責任を転嫁しようとして、10月1日から自警団員の大量検挙を始めた。しかし、因果を含めての検挙であったことは、そのほとんどが無罪か執行猶予付きの判決であり、収監された人も、1924年1月26日の皇太子結婚の恩赦で釈放されていることから判明する。なおかつ、1926年には、叙勲されたり恩賞をもらったりしているのである。
 加害者の側も罪悪感はほとんどなく、地域全体で彼らをかばっていた状況がうかがわれます。東京の千歳村(現世田谷区)での様子を、『九月、東京の路上で』(ころから)の中で、加藤直樹は次のように記されています。
 「このとき(12人が起訴されたとき)千歳村連合議会では、この事件はひとり烏山村の不幸ではなく、千歳連合村全体の不幸だ、として12人にあたたかい援助の手をさしのべている。千歳村連合地域とはこのように郷土愛が強く美しく優さしい人々の集合体なのである。私は至上の喜びを禁じ得ない。そして12人は晴れて郷土にもどり関係者一同で烏山神社の境内に椎の木12本を記念として植樹した。今なお数本が現存しまもなく70年をむかえようとしている」「日本刀が、竹槍が、どこの誰がどうしたなど絶対に問うてはならない。すべては未曽有の大震災と行政の不行届と情報の不十分さが大きく作用したことは厳粛な事実だ」 …烏山神社には、当時植えられた椎の木のうち4本が残り、参道の両側に高くそびえている。(p.50)
 私たちは、この冷厳たる事実ときちんと向き合い、そして学んだのでしょうか。"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"、ヨハン・ガルトゥングの言です。どうやら私たちは、差別と人権蹂躙という運命にまた甘んじなければならない暗い予感がしてなりません。

 本日の一枚です。碑文には“非常の死”という曖昧な表現が記されていました。
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by sabasaba13 | 2016-11-27 19:35 | 関東 | Comments(0)
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