虐殺行脚 埼玉・群馬編(19):高崎(14.12)

 それでは今夜の塒、高崎へと向かいましょう。群馬藤岡駅から八高線に十数分揺られると高崎駅に到着です。観光案内所で地図と観光パンフレットをもらって駅前に出ると、ん? 貸自転車らしきものが並べられています。高チャリ? 解説を読むと、ハンドルについているキーボックスに100円硬貨を入れると、チェーンキーがはずれてラックから取り出せます。返却するときは、チェーンキーをボックスに差し込むと鍵がかかり100円が戻ってくるという仕掛けです。ブラーボ、ブラーバ、ブラービ、アミーゴ! なんて素晴らしいアイデアなんだ。こうしたシステムが普及して、自転車レーンを拡充して、駐車料金を高額にして、重量税を大幅に引き上げれば、化石燃料を貪欲に喰らい、有害物質を吐き出し、騒音で静かな環境を破壊し、人様を死や怪我へと追いやる悪魔の機械をかなり駆逐できるのではないでしょうか。高崎アーバンホテルにチェックインをして荷物を置き、高チャリをお借りしてしばし高崎の町を散策することにしました。
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 まず訪れたのは豊田屋旅館本館です。1932(昭和7)年に建てられた老舗旅館で、正面の庇や唐破風に風格を感じます。
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 次なるはモダンな意匠のコンサートホール、群馬音楽センターです。アントニン・レーモンドによって設計された建築で、竣工は1961(昭和36)年です。アントニン・レーモンド(1888‐1976)は、チェコ出身の建築家。フランク・ロイド・ライトのもとで学び、帝国ホテル建設の際に来日しました。その後日本に留まり、モダニズム建築の作品を多く残し、日本人建築家に大きな影響を与えました。私も彼の建築が好きで、これまでもカトリック新発田教会聖パウロ教会東京女子大学を訪れたことがあります。
 アントニン・レーモンドの名前が出たついでに、一つエピソードを紹介しましょう。[参考文献:『建築探偵 神出鬼没』(藤森照信 朝日新聞社 p.108~9)] 日本で活躍したレーモンドは1938(昭和13)年にアメリカに帰国し、軍が立案した計画に参加することになります。それは「空襲」という日本の木造都市だけに有効な世界初の戦略で、アメリカ軍もその実効性には疑問がありました。そこで日本の都市や建築事情を知悉しているレーモンドを招き、彼の指導でユタ州に木造の町が作られ、繰り返し燃やされたそうです。戦後、彼は再び来日し活動を開始しますが、当然の如く日本の建築家から強い批判をあびることになります。しかし彼はこの計画に参加した理由については、黙して語りませんでした。藤森氏はその理由について、こう推測されています。レーモンドはチェコ出身で、彼が建築の勉強のため渡米した後、ナチス・ドイツによる侵攻が行われました。その際に、彼の五人の弟と妹は、ある者は国外脱出をはかって処刑され、ある者は強制収容所に送られて消息を絶ってしまいます。彼は、ナチス・ドイツと手を組む日本を叩くことによってしか、自分たちは救われないという思いがあったのではないか。そして以下は私の推測ですが、戦後彼が高崎の音楽センター建設に献身的に協力したのは、ある種の罪滅ぼしの意があったのではないか。うーむ、建築の歴史あり、ですね。
 なお同センター内には「アントニン・レーモンド ギャラリー」があり、群馬音楽センターや旧井上邸の模型の他、数点のパネル、プロフィールが展示されているとのことです。今回は時刻も遅く中に入れなかったので、再訪を期しましょう。
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by sabasaba13 | 2016-11-29 06:31 | 関東 | Comments(0)
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