虐殺行脚 埼玉・群馬編(21):高崎(14.12)

 もう一つ目に入ったのが「維新史に名を残す知将小栗上野介の顕彰慰霊碑」です。転記します。
 明治近代化の大きな業績を残した上野介は、徳川幕府崩壊に伴い現在の倉渕町権田に隠棲。しかし、「反逆の企てあり」として慶応4(1868)年西軍に捕らえられ、水沼川原で斬首されました。終焉の地には顕彰慰霊碑が建っています。
 倉渕村にある水沼橋のたもとにあるとのことです。また近くの東善寺には、彼のお墓があるそうです。これは是非訪れたい…のですが、高崎駅からバスで70分。かなり遠いですね、襟を正して再訪を期すことにします。
 小栗上野介忠順、彼の名を聞くと心が震えます。1827(文政10)年に幕臣の子として誕生、万延元年(1860)に日米修好通商条約批准のため渡米、地球を一周して帰国しました。その後勘定奉行、軍艦奉行などを務め、財政再建や日本初の株式会社(兵庫商社)の設立や郵便制度と鉄道建設の計画、フランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを行います。幕末期には徳川慶喜の恭順に反対し、徹底抗戦を唱えたと言われます。(これについては諸説あり) 1868(慶応4)年に辞職して上野国群馬郡権田村に帰郷しますが、同年薩長軍に逮捕され烏川のほとりで斬首されてしまいます。ま、要するに明治政府の行った近代化政策のほぼすべての面において先鞭をつけた能吏だったのですね。「小栗上野介は謀殺される運命にあった。明治政府の近代化政策は、そっくり小栗がおこなおうとしたことを模倣したことだから」という大隈重信の言葉がありますが、その才能を怖れた薩長勢力が謀殺した可能性もあります。彼は、アメリカで見た重工業の総合工場をつくって日本の近代化が進めようと幕閣を説得し、ヴェルニーと共に江戸湾を見まわって、絶好の場所・横須賀を見つけて横須賀製鉄所を建設します。現地を指揮した栗本鋤雲は明治中頃に当時を思い出しこう語っています。「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」 いい言葉だなあ。彼は幕府の滅亡を見越した上で、日本の近代化に必要な施設として横須賀製鉄所をつくったのですね。先見の明、広い度量、そして並外れた才能。私は彼のことを学校の授業で教わった記憶がありません。なぜ歴史教育が彼の存在を無視してきたのか、一考の価値はあります。おそらく江戸幕府の後進性と明治新政府の進歩性・正当性を子どもたちにすりこむためには、目障りな人物だからでしょう。
 なお以前に掲載した書評、『覚悟の人 小栗上野介忠順伝』(佐藤雅美 岩波書店)と『持丸長者 幕末・維新編 日本を動かした怪物たち』(広瀬隆 ダイヤモンド社)もよろしければご笑覧ください。また横須賀にあるヴェルニー公園には彼の胸像があります。また高崎市倉渕商工会のホームページには倉渕にある小栗上野介関連史跡案内図がありました。さらにさらに彼のお墓がある東善寺のホームページは、小栗上野介に関するたいへん充実したコンテンツがあります。その中で紹介されていたのですが、福地源一郎著の『幕府衰亡論』によると小栗はこう言ったそううです。
 一言で国を滅ぼす言葉は「どうにかなろう」の一言なり。幕府が滅亡したるはこの一言なり。
 うわお、安倍伍長、東京電力を筆頭とする原発マフィアの皆様方に熨斗をつけて進呈したい言葉です。
 そしてホテルに戻り、シャワーを浴びて、地酒を一献傾けながら明日の旅程に思いを馳せました。この時間が至福なんですね。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-12-02 06:28 | 関東 | Comments(0)
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