虐殺行脚 埼玉・群馬編(23):萩原朔太郎生家跡(14.12)

 そして広瀬川に向かいますが、その途中にあったのが「萩原朔太郎生家跡」という記念碑でした。萩原朔太郎か、私の大好きな詩人です。高校生の時に彼の「夜汽車」という詩を懸命に暗誦したことを甘酸っぱさとともに思い出します。朝日日本歴史人物事典より転記します。
 大正昭和時代の詩人。群馬県前橋市出身。父は開業医の密蔵、母はケイ。前橋中学在学時から創作活動を開始。文芸雑誌に主として短歌を投稿した。明治40(1907)年熊本の五高に入学したが1年で退学。41年岡山の六高に再入学したが43年退学。このころは音楽家を志し、郷里でマンドリンオーケストラを編成、指揮し、作曲を試みた。大正2(1913)年北原白秋主宰の『朱欒』を通じて生涯の友・室生犀星を知り、山村暮鳥を加えた3人で3年人魚詩社を結成し、4年『卓上噴水』を創刊。次いで5年には『感情』を創刊した。6年処女詩集『月に吠える』を刊行。これは近代詩史のうえでは、口語と自由律による全く新しい詩風が開拓されたという意味で画期的な出来事であった。12年には第2詩集『青猫』を刊行。収録された作品には「憂鬱」の語が頻出し、無為と倦怠を主調とした。14年刊行の『純情小曲集』は初期詩編「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」を収める。また詩論『詩の原理』、アフォリズム集『新しき欲情』、研究書『恋愛名歌集』『郷愁の詩人与謝蕪村』などがある。その詩風は病的ともいえる鋭い感受性を特徴とするが、みずみずしい抒情から冷徹なシニシズムまで多様な展開を示す。また『月に吠える』の特異な口語脈を生かした自由詩から、昭和9(1934)年刊の『氷島』における漢語を多用した文語定型詩への変化も注目される。
 そして彼は、『現代』1924(大正13)年2月号に、朝鮮人虐殺を憤る『近日所感』という詩を掲載しました。
朝鮮人あまた殺され
その血百里の間に連なれり
われ怒りて視る、何の惨虐ぞ
 たとえ異民族であろうとも、罪なき人間がなぶり殺されたことを怒る真っ当な方がいたことは救いです。しかし少数派であったことも否定できない事実。なぜ下劣な差別意識がこれほど蔓延したのか/しているのか、きちんと考えたいと思います。そうしないとまた我々は惨劇を繰り返しそうな恐怖に襲われます。
 なおJR前橋駅に「萩原朔太郎ゆかりの駅」という記念プレートがあることも紹介します。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2016-12-05 20:34 | 関東 | Comments(0)
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