虐殺行脚 神奈川編(3):久保山墓地(16.9)

 さて肝心の慰霊碑ですが、広大な墓地ゆえに見つけるのに苦労するだろうと覚悟はしていました。しかし、管理事務所の左にある合祀霊場に行くと、すぐに見つかりました。正面には関東大震災により死亡した無縁者3,300人を合葬した「横浜市大震火災横死者合葬之墓」。
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 その左手に「関東大震災 殉難朝鮮人慰霊之碑」が建っていました。

合掌

 この慰霊碑は、1974年に横浜市民の石橋大司さんが建てられたものです。小学校2年生の時に、石橋さんは、朝鮮人の遺体が電柱に後ろ手にしばられているのを目撃しました。1970年代に、石橋さんは当時の飛鳥田市長に対して、『市民への手紙』という制度を利用して、久保山墓地の合葬墓の修復と虐殺された朝鮮人の慰霊碑の建立を求める提案を数度にわたって行ったそうです。しかし合葬墓の修復は実行されましたが、朝鮮人の慰霊碑建立はされませんでした。その後、石橋さんは私財をなげうって、この碑を建てました。なおこの碑の裏には、『少年の日に目撃した一市民これを建てる』と記されていました。
 石橋さんの見識と行動に、心から敬意を表します。日本の民衆が、無辜の朝鮮人を数多虐殺したというこの歴史的事実を記憶にしっかりととどめて反省しないかぎり、また私たちは同じ行為を繰り返しかねません。ジョージ・サンタヤーナ曰く、"過去を記憶しない者は、過去をふたたび生きねばならぬ"。ヨハン・ガルトゥング曰く、"歴史から学ぶことのない人は、その歴史を再度生きることを運命づけられている"。過去を記憶し、歴史から学ぶためにも、意義深い建碑だと思います。そういえば『地震・憲兵・火事・巡査』(岩波文庫)で、この虐殺事件を痛烈に批判した弁護士の山崎今朝弥もこう述べていました。
 朝鮮人の殺された到る処に鮮人塚を建て、永久に悔悟と謝罪の意を表し、以て日鮮融和の道を開くこと。しからざる限り日鮮親和は到底見込みなし。(p.278)
 個人の善意に頼るのではなく、国がきちんと調査をして責任の所在を明らかにし、悔悟と謝罪の意を表するためのモニュメントをつくるべきだと思います。

 本日の二枚です。
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 追記。最近読んだ『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相 青丘文化社)の次の一文がありました。
 交通要所での検問、誰何の過程を反映したのか、十字路や橋のたもとでの殺害の例が多くみられた。増田節太郎(当時『東京日日新聞』記者、1891年生)は「日本橋、柳橋の焼野ヶ原の交差点には電信柱に針金でくくって朝鮮人が殺されていたし、大きな橋のたもとで小塚の原さらし首のように朝鮮人の生首が五つも六つもおいてあった」(三原令 『聞き書き』)と述べている。このように朝鮮人を電柱などに針金で縛り、「不逞鮮人なり、なぐるなり、けるなりどうぞ」と書いた立札を貼り、棍棒をおいて通行人の殴殺にまかせたのを目撃した人は非常に多い。(p.159~60)

by sabasaba13 | 2017-01-09 08:04 | 関東 | Comments(0)
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