保育所で国旗・国歌

 毎日新聞(2017.2.14)によると、厚生労働省が、保育所に通う幼児に対して、国旗や国歌に親しむことを求める保育指針を公表したとのことです。
 厚生労働省は14日、保育所に通う3歳以上の幼児に対し、国旗や国歌に親しむことを求める文言を初めて盛り込む保育所保育指針改定案を公表した。同日文部科学省が公表した幼稚園の教育要領案に表現を合わせた形だが、保育所は学校教育法に基づく施設ではなく、保護者から幼児を預かる福祉施設のため、過度の押しつけにつながる可能性があるとの懸念が出そうだ。
 保育所保育指針改定案には、国旗について「保育所内外の行事において国旗に親しむ」、国歌については「正月や節句など日本の伝統的な行事、国歌、唱歌、わらべうたや日本の伝統的な遊びに親しむ」という表現が盛り込まれた。国旗は現行の幼稚園の教育要領、国歌はこの日公表された教育要領案と同じ表現となっている。
 保育指針改定案はパブリックコメント(意見公募)を実施し、18年度から施行する予定という。厚労省は改定について、「幼稚園と保育所の一体化を進めており、文科省の教育要領の見直しに合わせた。国旗掲揚や国歌斉唱を強制するものではない」と説明している。
 幼稚園は学校教育法で義務教育前の教育を担う場、保育所は児童福祉法で保護者に代わって保育する場とそれぞれ位置付けられており、本来の目的は異なっている。【山田泰蔵】
 やれやれ、なぜこの国の官僚諸氏は、「愛国心」を子供や若者に強要したがるのでしょうね。これを"異端審問官的な他者支配欲"と喝破されたのは法哲学者の井上達夫氏です。(『現代の貧困 リベラリズムの日本社会論』 岩波現代文庫)
 誤解のないように言えば、愛国心自体を危険視しているのではない。危険視さるべきなのは、「愛国心は強制できる、しかも一定の儀礼を愛国心の踏み絵として強制することによって、それを植え付けることができる」とする異端審問官的な他者支配欲であり、「日本人ならみな日本を愛するのが当然だ、しかも日の丸に敬礼し、君が代を斉唱し、靖国の英霊への国家的慰霊の受容という同じ仕方によって、日本という国への愛を表現するのが当然だ」という同質社会的不寛容の蔓延である。国を愛するとは何をいかなる仕方で愛することなのかについて、視点を異にする人々が相互批判と相互啓発を通じて連帯するような関係性の欠損、すなわち、異質な他者との共生を受け入れない〈関係の貧困〉から、我々が未だ脱却できていないことこそが、危険視さるべきなのである。(p.324~5)
 「私を愛して」としつこくつきまとうのだから、ストーカー国家だと指摘されたのは、評論家の佐高信氏です。(『属国 米国の抱擁とアジアでの孤立』 ガバン・マコーミック 凱風社)
 2007年が明けると、愛や希望や美しさを語るメディアが東京中に溢れた。日本人がみな、春でもないのに突然、恋の季節に心を奪われたのか-むろんそうではない。政府が国民に愛国を求めていたのだ。おそらくこの国が隣国の北朝鮮とよく似ているのはこの点だろう。隣国の国民も「親愛なる指導者」と愛するよう求められている。評論家の佐高信は、自分を愛せとつきまとうような国を「ストーカー国家」と呼ぶ。国民が愛国を強制され自己犠牲がこのうえなく美しい行為だと教えられた20世紀前半の日本を覚えている人もいるだろう。しかしその日本の終末は悲惨なものだった。(p.285~6)
 いやいや、家庭内暴力(ドメスティック・バイオレンス)の加害者に近いと言われたのが、小説家の高橋源一郎氏。(『ぼくらの民主主義なんだぜ』 朝日新書)
 誤解を恐れずにいうなら、わたしには、この国の政治が、パートナーに暴力をふるう、いわゆるDV(ドメスティック・バイオレンス)の加害者に酷似しつつあるように思える。彼らは、パートナーを「力」で支配し、経済的な自立を邪魔し、それにもかかわらず自らを「愛する」ように命令するのである。(p.171)
 対象が何であれ、"愛"を強要するのは、分別のある真っ当な人間のすることでないと思うのですが。異端審問、ストーカー、DV、いずれも言い得て妙です。
 その「愛の強要」がとうとう、幼児までを捕捉しようとしています。病膏肓に入る、幼児嗜好性のストーカーですね、これは。個人が行なったら、犯罪なのに。
 それにしても、妄執とも言うべきストーカー行為を、臆面もなく官僚諸氏がくりかえすのは何故か。いまひとつ腑に落ちなかったのですが、片山杜秀氏の『大東亜共栄圏とTPP 片山杜秀の本7』 (ARTES)を読んで、目から鱗が落ちてコンタクトレンズが入りました。
 …福祉国家モデルが、いまつぶれようとしています。とくに日本。では、どうするのか。
 国が「面倒みます」とはいったものの、もう面倒をみられなくなった。面倒をみられなくなったのなら、同じ国で国民だとかいう必要ももうありません。道州制どころか国は分裂して、昔みたいな薩摩藩とか何藩だとかに分裂しちゃえばいいじゃないか、食えるところだけ食っていけばいいじゃないか、みたいな話になってきます。オレだけ食えればいいじゃないか、ということですね。そうなってしまったら、歴史は浅いけれども、今まで積み上げてきた近代国家のシステムは壊れてしまいます。国家を壊さないとするなら、どうするか。やはり福祉国家の破産後には、安上がりな連帯のしかけがまた帰ってくるでしょう。
 橋下市長がいっている《君が代》とかのポーズは、また戦争しましょうとか、また帝国主義のモデルに帰ろうといっているわけではありません。たんに、もう面倒はみられないんだけれども、だからといって、社会を壊してもらっては困るんですといっているわけです。いちおう日本国民じゃないですか、まあ仲良くして絆があるようなふりをしようじゃありませんか、錯覚して一生生きててくださいということなんですね。
 そのためには国旗とか国歌とかで、仲間だということにしておくのがよい。お互い面倒はみないけれど、仲間なんだよと。お互いが面倒をみないのになんで仲間なんだかわかりませんが、一緒なんだよ、日本人なんだよというわけですね。やはり、われわれはバカですから、国旗や国歌でなんとなく仲間かなと思っていると、何年かはごまかされます。やっぱり、おかしいかな、と思っているうちに死んでいく。この国はそういう段階にきてしまっているんです。
 橋下市長がいっていることは、大阪維新の会の維新八策とかのスローガンを見ればわかるように、基本的には新自由主義です。自助、自立、自由、自己責任。国家や自治体は面倒をみません。勝手にやってくださいと。そのぶん、役人とかがいらなくなるから給料を減らしますよと。だから、お金がかからないようにしますと。お金がかからないということはサーヴィスも低下します。あんたたちの面倒はみないんですと宣言しているに等しいですね。でも、同じ日本人じゃないですか、国旗、国歌があるから、仲良くしましょう、社会を壊して反乱を起こさないようにしてくださいね。いっていることは結局これだけではないですか。
 ひどい国ですね。私は本当にもう、泣けてくるというか、ついにここまできたかという感じがいたします。いま《君が代》がどうとかいっているのは、戦争をしようとか、そんな話とはまったく関係のない、ただこちらは面倒をみないけど、少しでも連帯心を低下させないような安上がりなしかけをひとつでも多くもっていたい、というそれだけの話にすぎないわけでしょう。
 左翼の人は、「また戦争が」とかいって心配してますが、どうも違うのではないか。ただ、安上がりで絆があるように見せかけようという話だけなんですから。そこをわかっていただいて、今の日本を考え直すことが大事なんだと思うんです。(p.52~6)
 なるほど。日本国政府はもう国民の面倒を見ない。金持ちに有利なシステムをこのまま維持したい。でも貧しい人たちが文句を言ったり暴れたりしたら困る。そこで日本人としての絆があるように見せかけるために国旗・国歌を利用する。安上がりだし。これは炯眼です。待機児童をなくすために、保育所を増やすことが大事なのにね。

 なお同書では、家族のことにも言及されているので、こちらも引用します。
 いま日本という国は、経済が右肩下がりである。税金も集らないとなると、家族が壊れていく分は国家が面倒をみることになるから、保険とか年金とかを充実させて、国民の生活を保障して安心して暮らせるというのが、近代のわれわれが考える美しい国のはずなんだけど、その美しい国を求めることは、つまり国がちゃんとやるということは求めることができない。にもかかわらず、安倍政権においては、もう面倒みられないので勝手にやってください。それは家族でやってください。なければこれから作ってください、いい家族を。そのための倫理教育とかはお金もかからないから国ががんばってやりますよ。つまり、家族を復興すれば、国があんまり面倒をみなくても日本人は大丈夫ですよ。こういうレベルの話になってきているのではないですか。これが私の理解するところの安倍晋三流の美しい国ですね。美しい国というのは、国が近代国家として国民の生活の面倒をみることをなるべくやめて、国の負担を減らして、その代わり自助努力でやってください。そしてその自助努力の基本は家族だ、ということです。(p.222)
 安倍伍長政権は、国民の面倒を見る気などさらさらない。銘肝しましょう。そしてそういう政権を、六割近くの方々が支持していることも。ほんとうに泣けてきます。
by sabasaba13 | 2017-02-16 06:28 | 鶏肋 | Comments(0)
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