富士宮編(2):伊東(17.2)

 気になったので、帰宅後にインターネットで調べてみたところ、「レトロな風景を訪ねて」という素晴らしいサイトに出会えました。それによると、このあたりの「猪戸町」、および西小学校付近の「新天地」は、赤線跡だそうです。"赤線"という言葉は安易に使われているようなので、『赤線跡を歩く』(木村聡 ちくま文庫)を参考に説明しておきたいと思います。いわゆる赤線の原型となったのが、内閣の要請・出資を受けて設立されたRAA(Recreation and Amusement Association)という民間団体が、遊郭など既存の施設を転用して"進駐軍"(※占領軍ですよね)向けにつくった慰安施設です。その目的は、"進駐軍"から一般の婦女子を守る"性の防波堤"とすること。かつての日本軍が占領したアジアで女性への強姦・陵辱を頻繁に行ったことが記憶にあったのでしょう、当然アメリカ軍兵士も同様の行為をするにちがいないと考えたのですね。しかし性病の流行や倫理観の相違などから、すぐにGHQは全ての施設にオフ・リミッツ(立入禁止)の看板を掲げ兵隊の出入りを禁止、そのため日本人相手の商売へと鞍替えしました。その直前の1946 (昭和21)年1月、GHQの指令により、日本における管理売春の公娼制度は廃止されましたが、戦後社会の混乱と性風俗の悪化を恐れ、特定の地域を限って私娼による慰安所を設けて営業することが許されることになります。こうした動きがあいまって、吉原・洲崎・玉の井・亀有・立石・新小岩・新宿・千住・品川・武蔵新田・八王子・立川・調布などで産声を上げたのが「赤線」。なおその名の由来は、警察がこの地域を地図に赤線で囲って示したところからきています。そこでは鮮やかなタイルと色ガラス、入口にホールのある独特の様式が生まれ、カフェー調の店が全国の盛り場で流行しましたが、1956 (昭和31)年5月24日売春防止法が公布、翌年4月1日同法の実施により姿を消すことになります。

 伊東の猪戸町・新世界が"赤線"として指定されたのかどうかは確認できませんでしたが、同サイトによると、古い歓楽街の面影を濃密に残す建築が数多く残っているそうです。掲載されている写真を見ても、それらしい雰囲気の建物ばかりです。これまでにも前掲書を片手に、鳩の街玉ノ井洲崎を散策してきましたが、こちらもぜひ徘徊してみたいですね。ほんとうに再訪を期す。また京都にも、「五条楽園」という歓楽街の残り香が漂う街並みがあることを教示していただきました。こちらもぜひ訪れたいと思います。

 なお興味のある方には、類書として『敗戦と赤線 国策売春の時代』(加藤政洋 光文社新書418)もお薦めです。
by sabasaba13 | 2017-02-18 06:30 | 中部 | Comments(0)
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