富士宮編(8):富士宮(17.2)

 駅に着いて二階のオープン・テラスにのぼると、どこからともなく大きな歌声が聞こえてきました。やれやれ、真昼間から酔っぱらっているのかなと思って駅前を見下ろすと、スーツを着た若い男性が、咽喉も裂けよと言わんばかりに、声を張り上げて歌い自己紹介をしています。そして十数メートル離れたあたりに、それを冷徹な雰囲気でじっと見つめるスーツ姿の男性がいました。もしかすると、これがあの有名な"新人研修"かもしれません。人前で蛮声をあげさせることによって個人のもつ尊厳や誇りを破壊し、上司からの命令に対する疑問を持たせずに絶対服従を強要し、組織に埋没させて部品のように酷使する。肌に粟が生じる光景でした。
 それにしても、会社がここまで個人の尊厳を奪うことが許される日本の社会とは、いったい何なのでしょう。これは学校にも通底する問題です。実は、『いじめの構造 なぜ人が怪物になるのか』(内藤朝雄 講談社現代新書1984)に、実に示唆に富む一文がありましたので紹介します。
 法哲学者の井上達夫は、戦後日本社会について『現代の貧困』(岩波書店)で次のように論じている。日本社会は高度産業資本主義に共同体的な組織編制原理を埋め込んで、経済成長を続けてきた。国家は中間集団の集合的利益の保護や調整のために介入することには積極的だったが、中間集団内部の共同体的専制から個人を保護するために介入する仕事をしようとはしなかった。日本の統治原理上、中間主義共同体から個人を保護する目的では、意図的に法が働かないようにされてきた。その結果、中間集団共同体は利権に関しては国家に強く依存していても、集団内部の個人に対して非法的な制裁を実効的に加えることができ、内部秩序維持に関してはきわめて強い自律性を有することになった。中間集団共同体は従業員に対する人格変造的な「教育」「しつけ」を好き放題に行うことができ、従業員の人格的隷従を前提として、組織運営を行うことができた。
 社畜化ともいうべき悲惨な人格的隷属のひとつひとつは、こと細かく政府によって計画されたものではなかったかもしれないが、ある一定の制度・政策的条件のもとで社会に繁茂し、これを政府は放置した。
 もちろん日本は、国家というレベルで考えると、言論の自由が保障されており、複数政党制の民主的な選挙が行われている先進国である。
 しかしここで、国家全体主義の旧ソ連の労働者と、中間集団全体主義の日本の会社員とを比較してみて、どちらの人間存在がトータルに全体に隷属しているだろうか。社畜コミュニタリアンのきめ細かい忠誠競争やアイデンティティ収奪のほうが、クレムリンのビッグブラザーよりも、はるかに深く、市民的自由を奪い、肉体と魂を強制的に全体に埋め込むことに成功しているのかもしれない。
 昭和初期から敗戦までの日本社会は、国家全体主義も中間集団全体主義もきわめて強かった。一方、戦後日本社会は、国家全体主義がおおむね弱体化したにもかかわらず、学校と会社を媒介して中間集団全体主義が受け継がれて肥大化し、人々の生活を隅から隅まで覆い尽くした社会であった。いわば学校や会社を容れ物にして、国体が護持されてきたのである。(p.255~6)
 中間集団全体主義、これは鋭い指摘です。無法地帯としての中間集団が、従業員に対する人格変造的な「教育」「しつけ」を好き放題に行うことができ、従業員の人格的隷従を前提として組織運営を行うことができるシステム。人びとの人権を踏みにじり、法に拘束されることなく酷使したからこそ、近代化や高度経済成長に成功したのかもしれません。それではなぜ、こうした中間集団から抜け出すことができないのか。『経済成長がなければ私たちは豊かになれないのだろうか』(平凡社ライブラリー)の中で、C.ダグラス・ラミス氏は、その理由は「恐怖」だと指摘されています。(p.138~9) 会社に所属して一生懸命に働き続けなければ、貧乏やホームレスになるかもしれないという恐怖。あるいは、病気になったら医者に行かねばならないが、でもその支払いができないかもしれないという恐怖です。そしてそういう恐怖があるのは、社会のセイフティ・ネットが弱いからだとも。なるほど、安倍伍長政権がせっせせっせと福祉予算を削減しているのは、そういう理由なのですね。個人を中間集団に埋没させて、批判精神と改革への志向という牙を抜いてしまう。

 駅のホームに着いても、背後から悲鳴のような歌声が微かに聞こえてきました。まるでこの国に捧げる挽歌のように…

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-02-24 06:23 | 中部 | Comments(0)
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