虐殺行脚 東京編(11):亀戸事件(16.10)

 『九月、東京の路上で 1923年関東大震災 ジェノサイドの残響』(加藤直樹 ころから)から引用します。
警察署の中で 1923年9月4日 火曜日 朝 亀戸署

 朝になって立番していた巡査達の会話で、南葛労働組合の幹部を全員逮捕してきてまず2名を銃殺した、ところが民家が近くにあり銃声が聞こえてはまずいので、残りは銃剣で突き殺したということを聞きました。私は同志の殺されたことをここで始めて知り、明け方に聞いた銃声の意味も判りました。
 朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40名の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見て居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降りましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
 亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。(全虎巌)

 労働組合の活動家たちが殺された事件はその後、「亀戸事件」と呼ばれるようになる。平沢計七や河合義虎など10人が、9月3日夜、亀戸署に検束され、警察の要請を受けた軍(騎兵13連隊)によって殺害されたのである。平沢らが殺された日については、3日夜という説と4日夜という説があるようだ。殺された10人のうち、平沢以外の多くは20歳そこそこの若さだった。
 しかし、このとき殺されたのは彼らだけではない。自警団4人と、そして人数もわからない多くの朝鮮人たちがいた。
 …亀戸署は管内に工場が密集し、労働運動が盛んに行なわれていたため、これに対する取締り、監視を重要な任務とする公安色の強い警察署であった。震災当時の署長の古森繁高も、もとは警視庁特高課労働係長であった。ようするに左翼や外国人を敵視する雰囲気がほかの警察署以上に強かった。
 さらに震災直後、亀戸署の管内は混乱が激しかった(四ツ木橋、大島、亀戸駅周辺も管内)。「闘争、殺傷在所に行はれて騒擾の巷と化したれども、遂に鮮人暴行の形跡を認めず」と同署が記録している。
 警官隊は、軍とともに騒擾の現場に出向いては朝鮮人を検束。1000人を超える朝鮮人、中国人で署内はすし詰め状態だった(これに対して、署員の数は230人程度)。これは決して朝鮮人を保護することへの積極性の表れではなく、むしろ「不逞鮮人」検束への積極性の結果である。
 警視庁は前日の3日以降、勝手にリンチを行うなといった内容のビラをまくなど、権力のコントロールのきかない自警団の活動を抑え込み始めた。朝鮮人暴動の実在に否定的になってきた現われでもあるが、この時点ではまだあいまいだった。
 亀戸署では拘留中の日本人自警団4人も殺害されている。自警団の4人は彼らの行動をとがめた警官に日本刀で切りかかったとして逮捕されていた。房内で「殺すなら殺せ」と騒ぎ続けたという彼らに対して、亀戸署は軍に要請して殺害させたのである。そこから、活動家や朝鮮人の虐殺が始まる。
 証言者の全虎巌(チョン・ホオム)は、共産主義者の河合義虎などが指導する南葛労働組合のメンバーだった。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていた。
 2日以降、街中で自警団が朝鮮人を襲うのを目にして、全は身の危険を感じる。警察で朝鮮人を収容し始めていると聞き、その方が安全だと判断。2日昼ごろ、工場の日本人の友人たち10数人に取り囲んでもらいつつ、亀戸警察署に向かったのである。道すがら、竹やりが刺さった朝鮮人の死体をあちこちで見た。
 亀戸署に収容されていた朝鮮人には、自警団の襲撃を逃げのびて自らやって来た人も多かったことを、全の証言は伝えている。だが、亀戸署内は外よりも危険な場所であった。
 全は7日まで亀戸署に置かれ、その後、習志野の旧捕虜収容所に送られた。4日午後4時に戒厳司令部が東京付近の朝鮮人を習志野の収容所などに保護収容することの命令を出したのだ。この収容は10月末まで続いた。解放されたあと、全はいったんは帰国を考えるが、やはり亀戸に戻ることにする。組合の仲間たちの安否を確かめたかったのだ。
 亀戸事件-亀戸署における10人の活動家殺害は大々的に報じられて問題となり、政府も10月、事実を認めたが、軍の適正な行動であったとして誰も罪に問われることはなかった。一方、同じときに同じ署でおきた朝鮮人虐殺については、真相の一端さえ明らかにされないままである。(p.72~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-03-21 06:30 | 東京 | Comments(0)
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