虐殺行脚 千葉編2(2):習志野(16.12)

 そして踏切を渡り、京成大久保駅の北側へ向かうと、「大久保ゆうろーど」という商店街となっていました。途中にあったのが、習志野第一騎兵旅団長・秋山好古の記念碑です。後学のために転記します。
秋山好古と習志野
 日本とロシアの間に緊張が高まった明治三十六年(一九〇三年)、秋山好古は当時大久保にあった騎兵第一旅団に赴任し、翌三十七年、日露戦争が始まると同旅団長として中国に渡りました。戦地では、沙河・黒溝台・奉天等の激戦地を駆け巡り、当時世界最強と呼ばれたロシア・コサック騎兵と互角に渡り合い、あるいは凌ぎ、日本軍の危機を幾度も救う活躍を見せました。司令官でありながら最前線で指揮を執り、退却時には自らしんがりをつとめた好古の勇姿は、敵・見方をこえて評判となり、明治三十八年九月、日本とロシアとの間に講和条約が締結されると明けて明治三十九年早春、好古は歴戦の痕跡を残す連隊旗と共に堂々と大久保の地に凱旋しました。この戦功により、後に日本騎兵の父と呼ばれた秋山好古、そして日本海海戦で赫々たる戦果を上げた連合艦隊の首席参謀、実弟・秋山真之の活躍は世界から驚きをもって称賛され、後に小説「坂の上の雲」(司馬遼太郎著)の主人公として描かれ、現在も多くの人々にその名が知られています。
 当時の日本が他のアジア諸国のように西洋列強の隷属や植民地にならなかったのは秋山兄弟の功績に負うところが大きく、習志野の地にいた数年間は好古の人生にとっても日本にとっても重要な日々であったことは後の歴史が物語っています。
 秋山兄弟の功績を認めることには吝かではありませんが、過大評価のように思えます。また日露戦争の歴史的意義については、自衛戦争より帝国主義戦争、朝鮮と満州の奪い合いという点のほうが大きかったと考えます。
 私が知りたいのは、勇将・秋山好古が(たぶん)心血を注いで鍛え上げた騎兵旅団が、日露戦争から約20年後に次のような事件を引き起こしたのかです。騎兵第十五連隊(習志野)所属の越中谷利一氏の証言を、『震災・戒厳令・虐殺』 (関東大震災85周年シンポジウム実行委員会編 三一書房)から引用します。
 ぼくがいた習志野騎兵連隊が出動したのは九月二日の時刻にして正午少し前頃であったろうか、とにかく恐ろしく急であった。人馬の戦時武装を整えて營門に整列するまでの所要時間、僅に三十分しか与えられなかった。二日分の糧食および馬糧予備蹄鉄まで携行、実弾は六十発、将校は自宅から取り寄せた真刀で指揮号令をしたのであるから、さながら戦争気分! そして何が何やら分らぬままに疾風のように兵營を後にして千葉街道を一路砂塵をあげてぶっ続けに飛ばしたのである。亀戸に到着したのは午後二時頃だったが、罹災民でハンランする洪水のようであった。連隊は行動の手始めとして先づ列車改め、というのをやった。将校は抜剣して列車の内外を調べ廻った。どの列車も超満員で、機関車につまれてある石炭の上まで蠅のように群がりたかっていたが、その中にまじっている朝鮮人はみなひきずり下ろされた。そして直ちに白刃と銃剣の下に次々と倒れていった。日本人避難民の中からは嵐のように湧き起る万才歓呼の声! 國賊! 朝鮮人はみな殺しにしろ! ぼくたちの連隊はこれを劈頭の血祭りにして、その日の夕方から夜にかけて本格的な朝鮮人狩りをやりだした。(p.46)
 やれやれ、好古さんは草葉の陰でどう思っているでしょうね。それにしても、陸軍のなかでも騎兵連隊がなぜ虐殺に関わったのでしょう。『関東大震災と戒厳令』(吉川弘文館)の中で、松尾章一氏が次のように分析されています。
 『騎兵操典』に「騎兵ハ剛胆慧敏ニシテ忍耐ニ富ミ、躰力強健ニシテ武器殊ニ馬術ニ熟達シ、襲撃ノ令一タビ下ルトキハ敵ノ多寡ヲ問ハズ勇躍奮進シテ敵ヲ圧倒スルノ勇気アルヲ要ス」とあるように、「騎兵精神」は「慧敏果敢」「軽捷機敏」を特性とした。大正7年(1918)12月から同9年12月にかけて、騎兵旅団内の奇数番号の聯隊に機関銃隊を設置した。したがって習志野の第13と第15聯隊は機関銃を所持していた。また同11年から鳩通信を騎兵通信に採用した。シベリア干渉戦争時に騎兵隊は大いに活躍し勇名をとどろかしたが、同11年の軍備整理で、師団内騎兵聯隊は二中隊に削減され、同年『騎兵操典』の改正により、乗馬戦・徒歩戦両様主義が採用され、徒歩戦の比重が高まり、乗馬行動が軽視される傾向となり、騎兵の陸軍のなかでの役割が低くなっていた(第一次世界大戦以後、騎兵不要論が台頭したことに抗議して、同9年8月に騎兵第四旅団長の吉橋徳三郎少将が自刃した事件があった)。このような時に、震災当時の近衛師団長・東京衛戌司令官であった森岡守成騎兵中将(大正12年3月に騎兵監に就任。シベリア出兵の殊勲者)の指揮下で、騎兵といえば習志野、習志野といえば騎兵といわれていた習志野騎兵聯隊にとっては、名誉挽回の好機であり、「騎兵精神」を大いに発揮し、戒厳令下で敵と見做した「不逞鮮人」や「主義者」の虐殺に積極的にかかわったのではないか、と私は考えている(佐久間亮三編『日本騎兵史』参照)。(p.84~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-18 06:27 | 関東 | Comments(0)
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