虐殺行脚 千葉編2(3):習志野(16.12)

 商店街のゲートには、チェスの駒でしょうか、ナイトとポーン(ビショップ?)の絵が描かれていました。騎兵旅団との結びつきの強い町だったのですね。そういえば、『地域に学ぶ関東大震災』の中で、実行委員会の平形千恵子氏がこう語っておられました。
 軍隊の町で、軍隊関係の商店が連なっています。軍人にものを売るとか写真を撮るとか。なかにはね、飯ごうの蓋一つ無くなると、点検されると困るので、だいたい他人の蓋を取るんだそうです。それでまた次の人から取る。最後に一番気の弱い人が塀を乗り越えてここに買いに来る。金物屋さんに飯ごうの蓋一つ買いにいった話があります。
 写真屋さんも多いし、食料品を売る店、薪炭屋、それからおの裏の方の農家は馬の飼料を納入して軍の残飯を払い下げて豚の餌にしていたとか。(p.89~90)
 「大久保ゆうろーど」のつきあたりがT字路になっており、日本大学生産工学部がありますが、かつての第十四連隊跡地です。左に行くと東邦大学でこちらは第十三連隊跡地。その先に済生会習志野病院がありますが、かつては衛戍病院(陸軍習志野病院)でした。
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 T字路に戻って今度は右へすこし走り、南方向へ曲ると八幡公園がありますが、ここがかつての騎兵旅団司令部跡です。煉瓦造りの門柱は当時のものですね。解説板があったので転記しておきます。
騎兵連隊・旅団司令部跡
 明治初頭より旧陸軍の演習が行われていた小金原は、同六年(一八七三年)明治天皇行幸の際に、「習志野原」と命名されてから、周辺に軍隊が急速に創設され、それにともない拡張されてきました。
 明治三十二年、日本陸軍初の快速兵団として騎兵連隊が習志野に創設され、同三十四年には大久保に転営して、現在の東邦、日本大学付近に第十三・十四連隊からなる第一旅団と、東邦中学校・高校付近に第十五・十六連隊からなる第二旅団がおかれました。さらに、八幡公園・習志野郵便局の地に旅団司令部がおかれました。
 日露戦争(明治三十七~三十八年)の折には、両旅団が派遣されましたが、満州事変(昭和六年)・支那事変(同十二年)には第一旅団が派遣されました。この頃より軍隊の機械化がすすみ、騎兵連隊は装甲部隊に再編制されていきました。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-19 06:26 | 関東 | Comments(0)
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