虐殺行脚 千葉編2(4):習志野(16.12)

 「習志野騎兵旅団発祥の地」という大きな記念碑のとなりに、その由来を記す碑があったので、こちらも転記しておきます。
碑誌
騎兵第一 第二旅団は 明治三十四年十二月この地に創設せられ 日本陸軍最初の快速兵団として発祥した 第一旅団に属する第十三 第十四聯隊 第二旅団に属する第十五 第十六聯隊は堂々と甍を連ね 大久保の地は一転して一大衛戍地となった
この地習志野の名は 明治六年 明治天皇行幸して親しく軍隊の調練を天覧せられし際 将来に亙り軍が操練に励むべき地として特に命名せられたるもの いま騎兵旅団の設置を見るに及び 正にその聖旨に副い名実相伴うに至ったのである 明治三十七八年日露戦争に當り 両旅団は共に満州に出征 よく機動性を発揮し 果敢善戦赫々たる戦績を収めて凱旋した 尓来約三千の将兵は人馬一体となり 日夜習志野原頭を馳駆して練武を重ね 輝く騎兵精神を培った 一面の草原は生気に満ち 聯隊旅団を挙げての乗馬襲撃など正に壮観そのものであった かくて習志野騎兵旅団は陸軍の華と謳われ 地域住民の親愛と協力の下に 軍民一致輝かしい一時代を経過した
満州事変の勃発するや 昭和七年第一旅団はこれに出動して各地に転戦し 引続き満州ハイラルに駐屯 さらに支那事変に活躍して偉功を樹てた この間第二旅団は終始この地に衛戍して訓練を続け また各種部隊の編成補充に任じた 時代の変遷に伴い騎兵部隊は逐次機械化の途を辿るに至り 第二旅団は昭和十六年 第一旅団は同十七年それぞれ戦車部隊に改編せられ ここに騎兵旅団の歴史は終りを告げたのである 発祥以来この地で訓練された壮丁は関東全域及び山梨長野両県下から選抜せられ その数延数万に及び 軍馬は北海道及び東北地方から補充せられ延一万余頭に達した この中には幾多の戦没犠牲となった人馬があることを銘記しなければならない 大東亜戦争後 習志野の地はその様相を一変し 広茫として習志野原もその姿を変えるに至ったが この地が騎兵旅団と共に歩んだ四十年は 習志野発展史上特に意義深い一時代を画したものというべきである その由緒を記念するため 関係者有志七百余名の思いをこめてこの碑は建てられた
希くは 習志野の地が永く栄光ある発展を遂げんことをと祈念し ここにその由来を誌す
昭和五十一年四月 建設委員一同
 あれれ、「大正十二年 関東大震災発生後 戒厳令下 騎兵旅団は敵と看做した無辜の朝鮮人を大量に虐殺し 赫々たる戦果を挙げた」という一文が抜けてますけれど。そして「軍民一致」という言葉に、背筋を冷たいものが走ります。『関東大震災・虐殺の記憶』(姜徳相 青丘文化社)によると、1923年9月3日、大島(現・江東区)に到着した野重砲第一連隊第六中隊の兵士、久保野茂次が日記にこう書いています。
 軍隊が到着するや在郷軍人等非常(非情か)なものだ。鮮人と見るや者(物)も云わず、大道であろうが何処であろうが斬殺してしまふた。そして川に投げこみてしまう。余等見たの許りで二十人一かたまり、四人、八人、皆地方人に斬殺されてしまふていた。(p.109~10)
 戒厳軍の権威と武力を後ろ盾にして、自警団や民衆が朝鮮人を殺戮したことがわかります。これぞ「軍民一致」。

 公園内には、「軍馬忠魂塔」、「軍馬之碑」、「騎兵第一旅団司令部跡」といった石碑がありました。
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 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-04-20 06:25 | 関東 | Comments(0)
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