虐殺行脚 千葉編2(6):習志野(16.12)

 ここから東へ向かってしばらく走ると、朝鮮人・中国人収容所(高津廠舎)があったところです。
 1923年9月3日に開かれた臨時震災救護事務局警備部の会議で、容疑のない朝鮮人は保護し、容疑のある朝鮮人は警官・憲兵が「適当処置(※殺害)」する方針が決定されたことです。戒厳行動を展開しているうちに、戒厳司令部は、流言は無根で朝鮮人暴動は起きていないのではないかという疑問をいだきはじめたのでしょう。また内外に対する体面上、自警団の熱狂的な暴走を抑制する必要を感じたのかもしれません。つまりこれまでの無差別敵視策を撤回して、大部分の朝鮮人は保護し、一部の「容疑ノ点アル」朝鮮人を「適当処分」する方策に変更しました。いうまでもなく、"容疑の点ある朝鮮人"とは、独立運動や労働運動・社会主義運動・無政府主義運動に関わっていた方々です。
 これは推測ですが、戒厳司令部としては、今さら朝鮮人暴動は事実無根であったと認めることは絶対にできません。組織的に流言蜚語を流布し、朝鮮人虐殺を実行してきたのは軍隊・警察なのですから、これを認めたら重大な過失であり責任を問われます。かといって朝鮮人の虐殺を放置しておくこともできない。そこで数は少ないが朝鮮人による放火や暴動はあったと嘘をついて責任を免れ、同時に流言蜚語を取り締まり、朝鮮人の保護を命じる。またその嘘に真実性をもたせるために、疑わしい朝鮮人をあぶりだして「適当処分」する。朝鮮人による独立運動・労働運動・社会主義運動の萌芽を、先手を打って潰すためにも有効ですね。
 というわけで、朝鮮人を「保護」または「適当処分」するための収容所が、千葉県習志野陸軍廠舎(旧捕虜収容所)、那須金丸ヶ原練兵場内、目黒競馬場、横浜港内碇泊の華山丸に開設されました。この中で、"容疑の点ある朝鮮人"を選別して殺害するための舞台となったのが、習志野収容所でした。例えば、警視庁管内63署は留置場・演武場などに拘束していた朝鮮人の多くを目黒競馬場の収容所に送りましたが、そのなかで世田ヶ谷署は120名の拘束者を目黒と習志野にわけ、「注意人物は軍隊に托して習志野に移し」ました。こうして独立運動・労働運動・社会主義運動に深く関わっている朝鮮人、あるいは軍・警察が犯した"不都合な真実"を知り過ぎた朝鮮人は、習志野の収容所に送られる。また収容されている人びとに対する捜査・尋問を行なって前記のような「不逞」(日本の国家権力にとって目障りな)朝鮮人をあぶり出す。戒厳司令官・福田雅太郎は習志野送りを「玉石混淆共に砕ることなからしむるため」と述べ、橘清は「保護すべきは保護し拘束すべきは拘束し、事毎に機宜の処置」であると述べています。そして「玉」と判断したら保護し、「石」と判断したら… (『関東大震災・虐殺の記憶』 p.197~9、p.201~2)

 こうして軍・警察による厳重な警戒のもと、朝鮮人たちは徒歩で、水・食糧は与えられず、傷病者への手当てもなく、炎天下のなか疲労困憊して習志野への移送されました。しかも道中には移送の噂を聞いたその地の自警団が大勢たむろしていました。心身ともに疲労して歩けなくなった落伍者は放置され、群狼の如き自警団の手中に落ちて落命した朝鮮人も、また些細なことで兵士に射殺された朝鮮人もいました。習志野の収容所は、騎兵第二旅団指揮下の騎兵第十三、十四、十五、十六連隊の東にある高津廠舎に開設されましたが、そこはかつて日露戦争の時のロシア人捕虜収容所、第一次大戦の時のドイツ人捕虜収容所となったところです。こうして習志野収容所に、9月5日から千葉県内および東京方面からおくりこまれた朝鮮人は約3200人、中国人は約600人でした。
 しかしこれで、彼らの生命が保障されたわけではありません。その処遇は避難民というよりは「戦時捕虜」に近いものでした。機関銃さえ用意した物々しい警戒は、自警団による攻撃はありえないので、朝鮮人監視のためでしょう。面会・通信・帰国の自由はいっさいありません。貸与された毛布や食事も貧弱なものでした。
 そして選別と抹殺がはじまります。当時、船橋警察署巡査部長であった渡辺良雄さんは以下のように回顧しています。
 わたしは統計(収容者数の)をやってから、毎日、何時現在で朝鮮人何名という日報を出した。現地の駐在巡査が現場に行って、収容所の人が数えたのをわたしに報告してくる。それをわたしが県庁へ報告する。すると、一日に二人か三人くらいずつ足りなくなる。昨日現在いくら、今日出たのがいくら、残りいくらとくるわけだから、すると出入りの関係で数が合わない。
 収容所のなかには、震災で負傷した人、避難の最中で軍隊や自警団に殺されかけて、傷を負いながら収容所にたどり着いた人もいたでしょう。収容所に入る以前の傷がもとで亡くなった人もいたでしょう。しかし、収容者数の減少の原因は、それだけではありませんでした。習志野収容所に収容された18歳の学生・申鴻湜(シンホンシク)さんの証言です。
 習志野へ行くと、身体検査をされ、持ち物全部検査されました。(中略) 兵営が二つ、ドイツ兵捕虜(第一次世界大戦時)を収容していた収容所だと思うのですが、大きいのがいく棟もあって、朝鮮人が二棟つかっていて、むこうにもう一棟中国人がいたんです。(中略)
 ところが、やっぱり人間が大勢いるといろんな事件がおこってくるんです。中国人の収容所の方で、逃げようとして打ち殺されたのがいましたよ。「ここにいたら殺される」と思っていたんでしょうね。それから、食事の時に我先にというと打ち殺すんですからひどいですよ。
 私などは、千葉陸軍歩兵教導連隊の兵営につれて行かれました。(中略)
 私のことを特務曹長は、「お前は運のいいやつだ」といっていましたよ。拡声器かなにかでよばれて、いったら帰ってこないのがいましたからね。それで「だれそれはどうしたのだ」ときくと、いろんなことを言っていましたよ。たいてい、昔の知りあいが訪ねてきたとか、雇主がここにいやせんかと訪ねてきたとか、親戚が来たとか。
 それならば、帰るときにここへきて、「オレはこういうわけで、親戚が来たから帰る」とか、言うわけだけれども、何のあいさつもなしにすっと帰るのはおかしいなと思うわけです。呼び出されたのは、必ずしもそこで委員(自治委員)をやっていた人とは限らないですが、委員をやっていた人の中で呼び出されて帰ってこないのが、私の知っている限りで、一人か二人いましたよ。
 申さんの「運のいい」こととは、教導連隊の特務曹長と申さんの間に偶然にも共通の知人がいたことです。
 当時騎兵第十四連隊本部書記だった会沢泰さんは、連隊が収容所にいる朝鮮人を「ある程度調べて」殺害したと証言されています。これを裏付けるのが2003年8月に新聞で報じられた「関東大震災ト救護警戒活動東京憲兵隊(推定)」という資料です。同資料は震災直後の憲兵隊の活動を記録したものとして、次のように記されています。
 習志野鮮人収容所警戒に就ては習志野憲兵分隊を以て之に充当せしむるの外、鮮語に通暁せる上等兵三名を私服にて収容所内に派遣し、鮮人の動静知悉に努めしめ、有力な資料を得たり。
 憲兵が収容所内でスパイとして朝鮮人と接し、監視していたことがわかります。そして、会沢さんの証言にあるように、朝鮮人の中から「おかしいようなもの=民族主義者・社会主義者」を峻別し、そのレッテルを貼られたものは呼び出しをくらい秘密裏に殺されました。
by sabasaba13 | 2017-04-23 09:27 | 関東 | Comments(0)
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