虐殺行脚 千葉編2(7):八千代(16.12)

 前置きが長くなりましたが、朝鮮人の「保護」「選別」「殺害」の舞台となった習志野収容所(高津廠舎)跡を訪れてみましょう。どのあたりだったのでしょう…わからない。実は『地域に学ぶ関東大震災』に掲載されている地図が詳しいものではなく、また私も探知能力の欠如とあいまって、結局わかりませんでした。実籾駅の近くであることは間違いないのですが。「猪木ピンチ」という状況にもなり、無念ですが探索を断念しました。

 実籾駅に着き、ブロンプトンを折りたたみ、駅のトイレに駆け込んで用を済ませ、京成本線に乗って勝田台へ。東葉高速線に乗り換えて八千代中央駅で下車し、ブロンプトンを組み立てていざ出発。これから、このあたりの地域住民のみなさんが建立した慰霊碑等をまわります。実は彼らによる朝鮮人虐殺と、既述の習志野収容所が深く関わっています。9月7日から9日にかけて、習志野に駐屯する騎兵隊は、習志野収容所に収容されている朝鮮人を周辺の村の農民に渡して殺させました。これは大竹米子先生と習志野市立第四中学校郷土史研究会の生徒たちによる聞き取り調査と、地域住民から提供された日記史料によって明らかとなりました。7日の午後4時頃、高津廠舎より「鮮人を呉れるから取りにこい」との知らせがあって、7日夜から9日夜にかけて二度にわけて18人をもらってきました。高津地区では新木戸地区と共同で6人を切りました。5人は入会地の山番小屋付近の寺の境内で、残る1人は大きなイチョウの木にしばりつけて殺したということでした。提供された『震災日記』から引用します。(『関東大震災・虐殺の記憶』 p.211~2)
七日 …午后四時頃バラック(※習志野収容所高津廠舎)から鮮人を呉れるから取りに来いと知せが有ったとて急に集合させ主望者に受取り行って貰ふことにした。東京へ送るべく米二俵本家の牛で桝次に搗きにやらせる事にして牛を借りにやると大和田からとりに来ると云ふので荷車で付けてやる。夜中に鮮人十五人貰ひ各区に配当し高津は新木戸と共同して三人引受お寺の庭に置き番をして居る。

八日 太左ヱ門の富治に車で野菜と正伯から米を付けて行って貰ふにする小石川に二斗本郷に二斗麻布に二斗朝三時頃出発。又鮮人を貰ひに行く九時頃に至り二人貰ってくる都合五人(ナギノ原山番ノ墓場の有場所)へ穴を掘り座せて首を切る事に決定。第一番邦光スパリと見事に首が切れた。第二番啓次ボクリと是は中バしか切れぬ。第三番高治首の皮が少し残った。第四番光雄、邦光の切った刀で見事コロリと行った。第五番 吉之助力足らず中バしか切れぬ二太刀切。穴の中に入れて埋め仕舞ふ皆労れたらしく皆其處此處に寝て居る夜になるとまた各持場の警戒線に付く。

九日 今日から日中は十八人で警戒し夜は全部出動する事になり皆非常に労れて何處でもゴロゴロ寝て居る。昨日行った富治が帰って来るかと待って居ると中々帰って来ない。夕方漸く帰る釜壊し仕舞った為買って来て呉れた金四円五十銭富治立替へて呉れる。夜又全部出動十二時過ぎ又鮮人貰って来たと知らせ有る之は直に前側に穴を掘って有るので連れて行って提灯の明りて梅松切る皮が少し残る是で首を切るには刀の善悪により刀が良ければ誰でも切れる事に決定した随分刀も害ったが新木戸中嶋光雄君の刀以外スパリと切れる刀はない。
 聞き取り調査による証言も紹介します。まず萱田地区の君塚国治さんの証言です。(同 p.213~4)
 暴れて困る質の悪いのをつれてきたんだから、生かして置くわけにいかん。部落部落にもらってきた部落のものが処分しなければいかん…朝鮮の奴は何としても鉄砲でうってくれという、そうか、他では夜のうちに三本立てやってつるして下から火を燃やしたところもあるらしいね。そんなまねはできない。本人のいう通りにしてやろう、今のあのもみお墓地に穴ほって、当人のいう通りに鉄砲でうってやれ、うつまでが大変だ、話すれば簡単に言うけれど、同じ人間をひどい目にするんだからね、中にゃこいつ悪いことしただからよ、めんどうくさいから刀でぶっさすべ、いうのもあるしね、みんな刀もってんだからね、そんなこと言わずにまぁ穴ほって倒れれば落ちるようにしておいたのです。最後に撃つ者もあまり気持ちよくないというわけです、なかなかやってくれないんだよね、おめえやれとか、そっちやれとか、カリウドやった人に頼んだけど人をやったらこの鉄砲は使いもんにならないちゅうわね…とうとう鑑札をうけた鉄砲もっている人にやってもらったけどね…葬るまでの間が大変でしたよ…もうそれは地震があってから一か月から、そのくらいたってからだね、涼しくなってたからね。(1977.10)
 同萱田地区、本郷氏と阿部こう氏の証言です。(同 p.214)
 それこそ伝家の宝刀持ち出してさ、猟銃で撃ったりね、手も足もしばっちゃったんだからかわいそうだったね、船橋のマツシマという所に土木工事にきてたんだって、何度も言ってたがもう殺気立ってて聞き入れなかった。(結局、みんなで何とはなしに殺しちゃったが、阿部) 一人やるとき一人見せて、哀号、哀号ってないてたぞって、(二人殺すのを一人は目をあけて見せておいたって言うから、ずい分残酷なことをしたもんだね、阿部)、こっちは二人、二人だもん(そういうことはずっとみんなの中で言わないでこられたでしょう)、だってもう、あたりさわりのない方がいいからね、まして敗戦後、朝鮮そのものがねぇ、下手にしゃべっておかしなことになってもつまらないしさ。(1976.7.29)
 一読、慄然とします。「牛を借りる」「釜を買ってもらう」「代金を立て替えてもらう」といった何気ない日々の営みに、殺人の様子や刀の切れ味といった非人間的な行為が違和感なく同居しています。そして言うまでもなく、国家権力にとって目障りな朝鮮人を選別し、住民に殺害させて責任を転嫁する、その底無しの卑劣さ。民衆の責任と国家の責任、ともに免れることはできないと思います。
by sabasaba13 | 2017-04-26 06:27 | 関東 | Comments(0)
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