虐殺行脚 千葉編2(10):円福寺大利根霊園(16.12)

 そして二十分ほどペダルをこいで八千代緑が丘駅へ、ブロンプトンを折りたたみ、東葉高速線に乗って西船橋へ。武蔵野線に乗り換えて南流山へ。つくばエクスプレスに乗り換えて流山おおたかの森へ。東武アーバンパークラインに乗り換えて梅郷へ。あーややこしかった。
 向かうは、日本人9名が朝鮮人と誤認されて自警団に虐殺されるという「福田・田中村事件」の慰霊碑のある円福寺大利根霊園です。ブロンプトンを組み立てて地図を頼りに三十分ほど走ると、左手に〒印のついた古いお宅がありましたが、たぶん旧福田郵便局なのかな。余談ですが、このマークは「逓信」の「テ」からとられたもので、世界共通ではありません。そして円福寺大利根霊園に着きました。
c0051620_89296.jpg

 広大な墓地ですので探しあてられるのか心配でしたが、幸い事務所がありました。係の方に慰霊碑の場所をお聞きすると、ご丁寧にそこまで案内してくれました。事務所の前の道を奥へすこし歩くと駐車場で、そこの右手にありました。「関東大震災福田村事件犠牲者 追悼慰霊碑」と刻まれた、黒い石の慰霊碑です。

 合掌

 それでは『世界史としての関東大震災 アジア・国家・民衆』(関東大震災80周年記念行事実行委員会編 日本経済評論社)所収の、石井雍大氏の論文をもとに、事件の概要を紹介します。1923年9月6日午前10時ごろ、千葉県東葛飾郡福田村(現・野田市)三ツ堀において、香川県の売薬行商人の一行15名が朝鮮人とされ、女、子どもを含む9名が、福田、田中村(現・柏市)の自警団によって殺害されるという事件が起こります。生存者・太田文義氏の証言によると、三ツ堀近くの香取神社で、船賃のことで交渉していると渡し場の船頭が騒ぎだし、福田村・田中村の自警団が押し寄せてきて、「君が代を歌え」「教育勅語」「『一五円五〇銭』をいってみろ」等のやりとりがあった後、「怪しい者はやってしまえ」ということで虐殺しました。言葉づかい(讃岐弁)や、めずらしい黒い羽の扇子を持っていたことも疑惑のもとだったそうです。
 事件後間もなく、千葉地方裁判所で裁判が行なわれますが、被告たちは、例外なく「郷土を朝鮮人から守った俺は憂国の志士であり、国が自警団を作れと命令し、その結果誤って殺したのだ」と陳述しています。驚くべきことに、予審判事は裁判の始まる前から「量刑は考慮する」と新聞紙上で語っています。さらに大正天皇の死去による恩赦で、一番長く刑務所にいた者でも、拘留期間を除くと一年半ぐらいの服役にしかなりませんでした。
 懲役三年の実刑判決を受け服役した田中村のT氏は、その後村長選挙に当選して村長に就任しています。また、検挙が始まった10月2日、田中村の会議で四人の被告に対し、見舞い金の名目で一人90円の弁護費用を出すことを決め、それを村の各戸から均等に徴収しています。(同書 p.76~8)
 なお石井雍大氏は、行商団の人たちが日本人であると分かっていて虐殺したのではないかと指摘されています。そのうえでの氏の論考を引用します。たいへん重要な論点だと思いますので。
 それでは、福田・田中村事件の場合、行商団の人たちが「朝鮮人ではないのでは」と、少なからずわかっていたにもかかわらず、殺害に及んだのはどうしてか。そこにもまた同じ日本人であっても貧しそうな行商人に対する蔑視や差別の構造があったと考えられるのである。
 事件に巻き込まれた香川県の行商団の人たちは、被差別部落の人たちであった。香川県の場合、所有農地が少ない農家(平均五反)が多く、小作率も全国一である。したがって、被差別部落の人たちが、たとえ土地を買いたくてもなかなか売ってもらえない、また小作をしたくてもさせてもらえない状況があった。そのような理由から、少なからぬ被差別部落の人たちは行商に出ざるをえなかったのである。
 部落差別を受け、行商を生業とせざるをえなかったため、大方は貧しい境遇であった。このことも行商人一行に対する目に見えるかたちでの蔑視、偏見、差別の要因になった。「どうせ、どこから来たのかも知れぬ行商人ではないか」こんな意識が働いたことは十分考えられる。
 事件が「朝鮮人と誤認され」といわれているが、単に日本人の民族排外心理一般の中での誤認事件ということだけではカバーしきれぬ問題があると考えざるをえない。(同書 p.79~80)
 碑の裏面に犠牲者の氏名と年齢が刻まれていますが、その中に「晴好 六歳」「つ多江 四歳」「イソ 二十三歳」「イソ 胎児」という文字を見出して固唾を呑んでしまいました。四歳と六歳の子供、そして妊婦を殺したのか。卒塔婆の一つに「惨死」と書かれていたのも印象的でした。
c0051620_895517.jpg

 貧しげなよそ者をみんなで面白がって殺した、ついでに子供と妊婦も… そうとしか考えられません。この恐るべき非人間的な残虐性を、どう説明すればよいのでしょうか。言うまでもなくこうした残虐な行為は、後のアジア・太平洋戦争において、中国人をはじめアジアの人びとに対して繰り返されます。たとえば『中国の旅』(本多勝一 朝日新聞出版)におさめられている馮景亭さんの証言を紹介しましょう。
 強姦された二人の女性のうち、気娘は局部に箒(ほうき)をさしこまれ、さらに銃剣を突き刺されて殺された。妊婦のほうは腹を銃剣で切り裂かれ、胎児が外にえぐりだされた。放火された自分たちの家々に火の手が大きくあがるのを見て耐えられなくなった三人の男が、日本兵のかこみを命がけで突破して家の方へ行こうとした。行かせまいとする兵隊たちともみあいになったが、まもなく三人は燃えさかる一軒の中へ押しこまれ、扉を外から閉められた。ほとんどその直後にその家は屋根が焼けおちた。二歳の男の赤ん坊がいた。騒ぎに驚いて大声で泣きだした。抱いていた母親から赤ん坊を奪った兵隊が、火の中へ放りこんだ。泣きさけぶ母親は、水路の中へ銃剣で突き落された。
 この非人間的な残虐性から目を逸らさず、真っ向から受け止め、そして何故なのかを考え抜くこと。自分の課題としていきたいと思います。さもないと、これからもずっと私たちは、さまざまな形での"残虐性"に苛まれ続けることになってしまいます。
思うに、歴史を修正したがる方々は、日本人のもつこうした"残虐性"を認めたくないのかもしれません。でも仕方ありません、歴史的事実なのですから。

 さてこの事件で、犠牲者たちは利根川に投げ込まれ、遺体はおろか遺骨も見つかっていません。そして事件の全容がほぼ明らかになった現在でも、いまだ遺族に対して謝罪がなされていません。福田村(現・野田市)でも田中村(現・柏市)でも、一切の記録・資料を残しておりません。
 ただ、2000年に、「福田村事件真相調査会」(香川県側)と「福田村事件を心に刻む会」(千葉県側)が設立され、多くの方々からの浄財を得て、結実したのがこの慰霊碑です。なおその過程で、香川県から碑の裏に「関東大震災直後の1923年9月6日、おりからの流言蜚語を信じ、行政機関によって組織された旧福田村、田中村の自警団によって、ここ三ツ堀において、香川県三豊郡出身の売薬行商人一行十名が非業の死を遂げた。私たちは、二度と歴史の過ちを繰り返さぬことを誓い、ここに芳名を記し、追悼の碑を建立するものである」という一文を刻む提案があったそうです。しかし結果的に刻まれませんでした。ただ裏面の左側にやや広めの空白部分があり、いつの日にか、この一文を刻むことを想定しているのかもしれません。

 そして夕闇が刻一刻と心身を包みゆく中、一心不乱にブロンプトンのペダルをこいで梅郷駅に到着。一路、帰途につきました。

 本日の二枚です。
c0051620_810176.jpg

c0051620_8103643.jpg

by sabasaba13 | 2017-04-29 08:11 | 関東 | Comments(0)
<< 『わたしは、ダニエル・ブレイク』 虐殺行脚 千葉編2(9):なぎ... >>