若草山山焼き編(11):奈良ホテル(15.1)

 そして興福寺の放生池として作られた人工池、猿沢池に着きました。湖面に映った青空と木々と興福寺五重塔がきれいでした。なお猿沢池には「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙はわかず、藻は生えず、魚が七分に水三分」という七不思議があるとのことです。鶴福院町からも、五重塔がよく見えました。そして不審ヶ辻子町(ふしんがずしちょう)へ、こういう古色ゆかしき町名を残しているのには見識を感じます。
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 なおこの不思議な町名の由来を説く木板が掲げられていたので、転記します。
 その昔、夜になると元興寺の鐘楼に鬼が現れ、人に危害を加えるので、道場というお坊さんがこれを退治しようと争い、逃げる鬼の後を追ったが、このあたりで見失ってしまったところから、不審ヶ辻子と呼ぶようになった。
 ここからすこし歩くと、今夜の塒、奈良ホテルに到着です。『奈良県の歴史散歩 上』(奈良県歴史学会 山川出版社)から引用します。
 奈良ホテル本館は、鹿鳴館などの設計で有名なイギリスの建築家コンドルの弟子で、日本銀行本店や東京駅を設計した辰野金吾が設計にあたり、35万円の巨費を投じて和洋折衷の2階建が完成、1909(明治42)年に開業した。開業前に関西鉄道が敷地を購入し、鉄道国有化によってそのまま国に買収されたため、奈良ホテル敷地は国有地となり、ホテルの経営も1913(大正2)年から鉄道院の直営となった。現在は民間経営である。(p.65)
 同ホテルの公式サイトからすこし補足すると、1905年、日露戦争に勝った日本には来遊する外国人が急増。そのため政府は全国の主なホテル・旅館経営者を集め、必要な保護特典を与える旨の発表をしました。これを受けて、関東では大倉喜八郎(帝国ホテル創業者)、関西では西村仁兵衛(都ホテル創業者)が活動を起こしました。そして1906年、西村は眺望に恵まれた高畑町飛鳥山を坪1円で買収し、翌年に都ホテルなど4ホテルを統合した大日本ホテル株式会社を設立したのがその嚆矢だそうです。
 以前にTV TOKYOの『美の巨人たち』でも取り上げられた名門クラシックホテル、楽しみです。
 外観は重厚な桃山御殿風の木造建築、中に一歩入ると豪壮な檜造りの空間が広がります。フロント前のマントルピースには鳥居がしつらえてありましたが、外国人向けの意匠なのでしょうか。フロントでチェックインをして、二階の客室へ。漆喰仕上げの真壁造風の壁、大階段に取り付けられた擬宝珠、太い一本の檜を削り出した手すりが見事です。部屋はそれほど広くはありませんが、天井が高くひろびろと感じられる空間です。使用されてはいませんが、マントルピースもありました。
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 窓のところには「窓の開放に関するお願い」という札がありました。
 奈良ホテルはご覧の通り、豊かな緑に囲まれた場所に立地しております。窓を開放されますと、奈良公園の元気な生き物たちが入室する場合がございます。窓は長時間開放されないようご協力お願いいたします。
 元気な生き物たちに入室してもらいたいものだと窓を開けようとすると、山ノ神に「やめて」と窘められましたが。まずは洗面所をチェックする山ノ神、山と積まれた豪華なアメニティ・グッズに狂喜乱舞。♪空に灯がつく通天閣におれの闘志がまた燃える♪と口ずさみ、「根こそぎ持っていくわ」とほくそ笑むその姿には畏怖感すら覚えます。
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 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-23 06:33 | 近畿 | Comments(0)
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