若草山山焼き編(13):奈良ホテル(15.1)

 なお「埃まみれの書棚から」というサイトに"随筆・小説のなかの「奈良ホテル」"という一文がありましたの、ぜひ紹介します。
和辻哲郎 『古寺巡礼』

 奈良についた時はもう薄暗かった。この室に落ち着いて、浅茅ヶ原の向ふに見える若草山一帯の新緑(と云ってももう遅いが)を窓から眺めていると、いかにも京都とは違った気分が迫ってくる。奈良の方がパアッとして、大っぴらである。…食堂では、南の端のストオヴの前に、一人の美人がつれなしで坐っていた。黒味がかった髪がゆったりと巻き上がりながら、白い額を左右から眉の上まで隠していた。眼はスペイン人らしく大きく、頬は赤かった。…奈良の古寺巡礼に来てかういふ国際的な風景を面白がるのは、少しおかしく感じられるかも知らぬが、自分の気持ちには少しも矛盾はなかった。われわれが巡礼しようとするのは『美術』に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである。

 食後T君と共にヴェランダへ出て、外を眺めた。池の向ふの旅館の二階では、乱酔した大勢の男が芸妓を交へてさわいでいる。興福寺の塔の黒い影と絃歌にゆらめく燈の影とが、同じ池の面に映って若葉の間から見えるのも、面白くはなかった。われわれはそれを見下すような気持になって、静かに雑談に耽った。(5月18日夜)

林芙美子

 また、奈良ホテルにも泊まったことがあります。終日池に面した部屋から、笹薮のゆさゆさするのを眺めていた事があります。奈良ホテルに泊まるような、心おごった豊かな気持ちも捨てがたく有難いのに私はホテルを出ると、友人と二人で町のうどん屋に這入って狐うどんをたべたりもしました。(『私の好きな奈良』)

 ホテルへ泊って窓を開けると、三笠山の麓にはもう灯がつきそめて、昔ながらのたそがれだ。…ホテルはひっそりしているので、まるでフォンテンブロウのサボイに泊ってゐるやうな静けさであった。夜更けてスチームのなる音は巴里の色々な宿屋を憶ひおこす。(『早春』)

山口誓子 『炎昼』

 花楓(はなかえで)新婚のふたり椅子に揺れ
 花馬酔木(はなあしび)雨はうつぼ柱に鳴れる
 けふも奈良ホテル春雨に樋(とひ)鳴れり

志賀直哉 『寂しき生涯』

 此春、奈良ホテルで、久しぶりに大宮君の絵を見た。『高円山』といふ題の百号程の絵だった。例の如く、実際の高円山とは似もつかぬ山に変わっていたが、大宮君として、悪くない方の絵だった。大宮君が画室で此絵を描いてゐるのを見に行った事を憶ひ出した。然し、此絵はホテルの余り客の行かない廊下の端にかけてあるばかりでなく、私が見た時には真前に大きな棕櫚竹の鉢が台にのせて、画面とすれすれに置いてあった。

堀辰雄 『大和路・信濃路』

【一九四一年十月十日、奈良ホテルにて】
 くれがた奈良に著いた。僕のためにとっておいてくれたのは、かなり奥まった部屋で、なかなか落ちつけそうな部屋で好い。すこうし仕事をするのには僕には大きすぎるかなと、もうここで仕事に没頭している最中のような気もちになって部屋の中を歩きまわってみたが、なかなか歩きでがある。これもこれでよかろうという事にして、こんどは窓に近づき、それをあけてみようとして窓掛けに手をかけたが、つい面倒になって、まあそれくらいはあすの朝の楽しみにしておいてやれとおもって止めた。その代り、食堂にはじめて出るまえに、奮発して髭ひげを剃そることにした。

【十月十一日朝、ヴェランダにて】
 けさは八時までゆっくりと寝た。あけがた静かで、寝心地はまことにいい。やっと窓をあけてみると、僕の部屋がすぐ荒池あらいけに面していることだけは分かったが、向う側はまだぼおっと濃い靄もやにつつまれているっきりで、もうちょっと僕にはお預けという形。なかなかもったいぶっていやあがる。さあ、この部屋で僕にどんな仕事が出来るか、なんだかこう仕事を目の前にしながら嘘みたいに愉しい。きょうはまあ軽い小手しらべに、ホテルから近い新薬師寺ぐらいのところでも歩いて来よう。

谷崎潤一郎 『細雪』

 6月上旬の土曜日曜に、貞之介は留守を雪子に頼み、悦子をも彼女に預けて、幸子と二人だけで奈良の新緑を見に出かけた。…土曜の晩は奈良ホテルに泊まり、翌日春日神社から三月堂,大仏殿を経て西の京へ廻ったが、幸子は午頃から耳の附け根の裏側のところが紅く脹れて痒みを覚え、鬢の毛が触るとその痒さがひとしほであるのに悩んだ。…『ほんとに、さうやわ。あのホテル、ちょっとも親切なこともないし、サアヴィスなんかも成ってない思うたら、南京虫がいるなんて、何と云うひどいホテルやろ』 幸子は、折角の二日の行楽が南京虫のために滅茶々々にされたことを思ふと、いつ迄も奈良ホテルが恨めしく、腹が立って仕方なかった。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-05-25 06:28 | 近畿 | Comments(0)
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