若草山山焼き編(22):大和郡山(15.1)

 それでは最後に、キリシタン殉難碑のある大和郡山カトリック教会へと向かいましょう。途中で見かけた古い町屋にはばったん床机が設置されていました。
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 古い電話ボックスは水槽となっており、なんと金魚が遊弋していました。さすがは大和郡山。
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 もう営業されていないのでしょうか、古い旅館「花内屋」は品格のあるいい風情ですね。起り屋根、前面を飾る繊細な格子、虫籠窓、木彫の看板、いずれも見惚れてしまいました。その先には「紀元二千六百年記念」と刻まれた石柱がありました。
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 近鉄の線路を越えて西へ歩いていくと、スポーツ用品店の店頭に巨大なグラブが飾ってあり、「グラブ神社」という解説板がありました。
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 後学のために転記しておきます。
グラブ神社
 神宿る巨大グラブの絵馬を大和郡山八幡神社様に奉納1.6m×1.2mの吉野檜製ショーケースに野球発祥アメリカのクラシックグラブと日本のグラブ十体、そして平城京で子ども達が行っていたという打毬のバットも納めました。ぜひご参拝下さい。
場所 柳四丁目二十五番
 余談ですが、「野球」は俳人・歌人の正岡子規が命名したものですね。野球が大好きだった彼は、幼名の升(のぼる)をもじって「のボール」と読ませる号を用いていたそうです。今読んでいる『子規と漱石 友情が育んだ写実の近代』(小森陽一 集英社新書)から引用します。
 この1898(明治31)年の五月、子規は新聞『日本』に『ベースボールの歌』を発表する。長谷川櫂氏は、この九首を「子規が訣別した青春時代をかなしみ、たたえる歌」(『子規の宇宙』 角川選書、2010)と位置づけている。

 久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
 国人ととつ国人とうちきそふベースボールを見ればゆゝしも
 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如く者はあらじ
 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり
 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな
 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす
 うちはづす球キャツチャーの手に在りてベースを人の行きぞわづらふ
 うちあぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に
 なかなかにうちあげたるは危かり草行く球のとゞまらなくに

 子規が実践しようとした短歌革新が、どのような表現世界を目指していたのかが、明確に伝わってくる九首である。「ベースボール」というカタカナ語と関係を結ぶことによって、使い古されたはずの歌語にまったく新しい命が吹き込まれ、「明治」という時代の精神の一つの在り方が、はじけるような力強さで伝わってくる。坪内稔典氏は、「チームによるゲーム」としての「ベースボール」に、子規が「共同の楽しみを見出していた」として、「そのチームに句会や歌会などと同じような共同性を見出していたにちがいない」(『正岡子規-創造の共同性』 リブロポート、1991)と指摘している。(p.114~5)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-08 06:29 | 近畿 | Comments(0)
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