若草山山焼き編(24):大和郡山(15.1)

 この事件に関する史蹟は、これまでに津和野を訪れました。よろしければ訪問記をご一読ください。
 なお棄教を迫られた浦上キリシタンたちが、国家権力の強圧と暴力に対して抵抗し、毅然として信仰を守り抜こうとした史実は、大佛次郎氏が『天皇の世紀』(文春文庫)の中で詳細に述べておられます。一部ですが紹介しましょう。
 …政治権力に対する浦上の切支丹の根強い抵抗は、目的のない「ええじゃないか踊り」や、花火のように散発的だった各所の百姓一揆と違って、生命を賭して政府の圧力に屈服しない性格が、当時としては出色のものであった。政治に発言を許されなかった庶民の抵抗として過去になかった新しい時代を作る仕事に、地下のエネルギーとして参加したものである。新政府も公卿も志士たちも新しい時代を作る為になることは破壊以外に何もして居なかった。浦上の四番崩れは、明治新政府の外交問題と成った点で有名と成ったが、それ以上に、権力の前に庶民が強力に自己を主張した点で、封建世界の卑屈な心理から脱け出て、新しい時代の扉を開く先駆と成った事件である。社会的にもまた市民の「我」の自覚の歴史の上にも、どこでも不徹底に終わった百姓一揆などよりも、力強い航跡を残した。
 文字のない浦上村本原郷の仙右衛門などは自信を以て反抗した農民たちの象徴的な存在であった。維新史の上では無名の彼は、実は日本人として新鮮な性格で、精神の一時代を創設する礎石の一個と成った。それとは自分も知らず、その上間もなく歴史の砂礫の下に埋もれて、宗教史以外の歴史家も無視して顧みない存在と成って、いつか元の土中に隠れた。明治の元勲と尊敬された人々よりも、真実新しい時代の門に手を賭けた者だったとも言えるのである。元勲たちは実は時代の波に乗せられて自己の意思なく漂流していたものである。(⑪p.105)

 浦上切支丹の「旅の話」は、この辺で打切る。私がこの事件に、長く拘り過ぎるかに見えたのは、進歩的な維新史家も意外にこの問題を取上げないし、然し、実に三世紀の武家支配で、日本人が一般に歪められて卑屈な性格になっていた中に浦上の農民がひとり「人間」の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない、日本人としては全く珍しい抵抗を貫いた点であった。当時、武士にも町人にも、これまで強く自己を守って生き抜いた人間を発見するのは困難である。権利という理念はまだ人々にない。しかし、彼らの考え方は明らかにその前身に当るものであった。(⑪p.230)
 人間としての権威と権利を守るために、強権に対して妥協も譲歩も示さず、抵抗を貫く。私たちが学ぶべき点だと思います。

 それではそろそろ大和郡山とお別れです。実は、今調べていて分かったのですが、付近には、室町時代に出来た環濠が原型に近い形で残されており、その規模も全国最大級という稗田環濠集落や、番条環濠集落があるとのことです。探訪を断念した東岡町の遊郭物件と合わせて、再訪を期しましょう。レンタサイクルもあるようですし。
 近鉄郡山駅には、金魚をデザインしたトイレ男女表示がありました。
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 大和西大寺駅で近鉄京都線の急行に乗り換えて京都へ。近鉄京都駅では「日本最古の神社 三輪明神」という大きな看板を発見。そして京都駅の地下街にあった「いろはかるた」で、とんぺい焼きと牡蠣入りねぎ焼きをたいらげました。
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 「いのだコーヒ」で食後の珈琲を所望し、京都20:02発の新幹線に乗り込みました。
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 車内誌「ひととき」では高野山を紹介する記事がありましたが、たしか重森三玲がつくったお庭があることを思い出しました。こちらも再訪してみたいものです。とりあえずマスコット・キャラクターの「こうやくん」を撮影。
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 若草山焼き編、これにて一巻の終わりです。

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-06-10 06:37 | 近畿 | Comments(0)
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