2017年都議会選挙

 都議会議員選挙での、自民党の歴史的惨敗。

 快哉

 これが、日本を"美しい国"に改造しようとする安倍上等兵内閣の野望を阻止する第一歩になるかもしれません。ちなみに氏が考える"美しい国"の内実とは、次のようなものですね。世界各地で荒稼ぎをする日本企業、それを軍事力でサポートする自衛隊、草刈り場にされた国の人びとの怨嗟を一身に浴びる"美しい国"日本。福島の人々は見殺しにされ、原発がフル稼働し、新規の原発も次々と建設されていく"美しい国"日本。農業は壊滅し、生物としての生き死にまでをアメリカに左右される"美しい国"日本。流暢なアメリカ英語を操りながらアメリカ企業の底辺労働者として酷使される人々であふれる"美しい国"日本。一刻も早く安倍でんでん内閣に引導を渡したいものです。

 その一方で、大勝した小池百合子知事と「都民ファースト」の動きにも警戒を怠ることなく、状況を見詰めていきたいと思います。彼女の極右的思想と、「日本会議」との関係は気になるところです。自民党内では、安倍上等兵の後釜として、稲田氏を見限って小池氏を担ぎ出そうとする動きがあるのではないかな。「都民ファースト」が、自民党の分身・別動隊・鉄砲玉でないことを衷心より祈っております。

 なお今回の選挙で、私が憂慮したことが二点あります。投票率の低さと、公明党の無節操・無定見です。
 まず投票率の低さ。最終的な投票率は51.27%、前回から7.77ポイント上がったとはいえ、半数弱の有権者が棄権したということです。開いた口が塞がらず、呆れて物も言えません。たいした手間でもないのに、この体たらくは何故? 「適当な候補者がいなかっか」なんていう戯言は言い訳にもなりません。最近読んだ『転換期を生きるきみたちへ』(内田樹編 晶文社)の中で、白井聡氏が舌鋒鋭い批判を展開されていたので、長文ですが是非とも紹介したいと思います。
 問題は、「行っても無駄だ、だから行かない」という思考回路であり、これこそが、分析され、批判され、乗り越えられなければならない、ということです。
 重要なのは、「どうせ行っても何も変わらないから行かない」という行動様式は、消費社会のそれとしては正しい、ということです。投票するとはどういうことなのか。投票行動は買い物のようなものである、ととらえることができるかもしれません。このようなとらえ方は、少なくない政治の専門家が現にしています。お店で欲しいものを探し、それがあればお金と引き換えにそれを買うのと同じように、期待する政治家を選んで、お金の代わりに一票を入れる。この見方によれば、投票所に行ったのに積極的に票を入れたくなるような候補がいないという状態は、買い物に行っても欲しいものはないとあらかじめわかっているならば、家から出ない方が合理的な行動です。同じように、期待できそうな政治家がいないのならば、わざわざ投票所に足を運ぶことは、バカげたことであり、家で寝ている人の方が賢い、ということになります。
 こうしてわかることは、社会的矛盾が増大し、政治の果たすべき役割の重要さが増しているにもかかわらず投票率が下落し続けるのは、人々がある意味で合理的に行動している結果だ、ということです。しかしながら、ここで批判されねばならないのは、こうした行動に現れている「ある意味の合理性」「消費社会的合理性」にほかなりません。明らかにされねばならないのは、投票することを買い物と同じようなものととらえていることの根底的な誤りです。
 買い物と投票するという政治的行為の根本的な違いは、選択可能性ということです。お買い物に行った場合、私たちは選び放題に選ぶことができます。この店が気に入れなければ別の店へ、その店も気に入らなければまた別の店へと渡り歩き、どれも気に入らなければ何も買わないで帰る、ということも自由です。そのようにしたところで誰も文句は言わないどころか、どのお店でも店員さんは、何も買わなくても「またぜひお越しくださいませ」と実に丁寧な態度で接してくれます。なぜなら、物があふれた消費社会においては、どんなチャンスでもとらえてお客の欲望を掻き立て、物を買ってもらわなければならないからです。そのためには、お客の食指が少しでも動きそうな物を取り揃えておくわけで、そのなかから私たちは選び放題だし、それらの商品に私たちは関わらないでいることも選択できる、というわけです。
 これに対して、政治は全く違います。私たちの多くが選挙で棄権し、投票率が下がっても、誰かは必ず当選し、選ばれた人たちのなかから政権が成立します。その政権が愚かな政策を推進した場合、その悪影響は投票した人にもしなかった人にも及びます。政治を嫌ったり、政治に対して無関心でいることはできますが、嫌おうが放っておこうが、その影響から逃れることは誰もできません。政治における究極の事象は戦争ですが、戦争が起きた場合、その影響は生命への損害という形にまで高まります。
 ですから、「期待できる候補がいないから投票に行かない」という行動がどれほど愚かしいものなのか、すでに明らかだと思います。政治権力を委ねる相手を選ぶという行為は、買い物に出かけることとは、全く異なるものです。積極的に選びたい候補者がいようがいまいが、選ばれた権力は現実に私たちの生活に影響を及ぼします。その意味で、投票という政治的行為に、選択可能性はないのです。ぜひこの人に当選して欲しいという候補者がいない場合でも(そのようなケースは非常にしばしばあります)、私たちは「なるべくマシな」、もっと言えば「最も害の少なそうな」候補を選出しようとするのが、当然の行為です。政治は、お買い物と違って、積極的に選びたくなるものをお膳立てしてくれたりはしないのです。(p.214~6)

 私はこれまで、多くの政治学者が「ちゃんと投票に行くべき」と発言したり、「若者よ、政治にもっと関心を持とう」などと発言する様子を冷ややかに見てきました。それはなぜか。一定以上の年齢の人間に、差別なく投票権が与えられるようになったのは-そのような選挙を「普通選挙」という-、そんなに昔のことではありません。日本の場合でも、男子普通選挙が実施されたのは帝国議会が開設されてから38年後の1928年、女性に投票権が与えられたのは、第二次世界大戦での敗北を経た今から70年前のことです。このような権利が獲得されたのは、多くの人々の長い努力と莫大な犠牲が払われてのことなのです。こうした歴史を誰もが学校で習っているはずなのに、投票所に行って投票するという実に簡単な行為すらしないほど怠惰で愚かな人間が、政治権力によって犠牲になってしまうとも、それは自業自得と言うほかありません。
 「投票に行きましょう」とか「政治に関心を持とう」といった呼びかけをする人の動機が善意に基づくことを私は全く疑いませんが、これらの呼びかけの発するメッセージが「投票に来てくれませんか」、「政治に関心を持ってくれませんか」というものでしかないのならば、むしろこうした呼びかけは有害なものにすらなりかねません。なぜなら、その場合、呼びかけは「ぜひお越しください」という「お店の言葉」と変わらないからです。それでは、買い物に行くことと選挙で投票することは同じようなものだという勘違いを正すどころか、助長するものになってしまいます。
 政治に関心を持ち、投票に行くことは、「そうしたければそうしたらいい」という具合に選択可能なものではありません。それは市民的義務です。先ほど、苦難に満ちた政治的権利獲得の歴史を知ろうともせず、自らの貴重な権利を行使することを自発的に回避するような愚か者が悪い政治のために酷い目に遭っても自業自得であると述べましたが、このように愚かな人間が自らの愚かさの犠牲になるだけで、事は終わらないのです。
 悪い政治の影響は、愚かな行動をした人間だけに限定されて及ぶものではありません。現在の日本の政治が全般的に腐敗し堕落している一因は、消費社会的合理性(=政治的愚かさ)に基づいて行動する人間があまりにも多くなってしまったためです。どこまでもお客様根性を貫く有権者に対しては、政治家が誠実に振る舞うことは決してありません。その必要がないからです。こうして政治の世界から緊張感が失われ、よく考えていない有権者の票と低投票率に助けられて選出された、たまたま時流に上手く乗っただけの質の悪い政治家と世襲政治家が、税金を浪費して下らないバカ騒ぎを演じる、という光景がますます目につくようになっています。つまり、あまりにも多くの人たちが市民的義務を回避するようになってしまったために、政治という社会に対して多大な影響を持つ領域が全般的に劣化してしまったのです。(p.216~8)

 もうひとつが公明党の無節操と無定見。今回の選挙では「都民ファースト」に擦り寄ったわけですが、この政党には政治的な目標がないのでしょうか。多数票を獲得する勢いのある存在を敏感な鼻で嗅ぎ分け、にじり寄り、権力のお裾分けにあずかり、創価学会の勢力拡大を目論む、それしか目標がないように思えますが。この件についても最近読んだ『愛国と信仰の構造』(中島岳志・島薗進 集英社新書0822)の中で、両氏が同党を適確に分析・批判されています。こちらも長文ですが引用します。
[島薗] 戦前までの創価学会の歴史を遡ってみましょうか。
 同じ日蓮宗とはいえ、国柱会と違って、創価学会は創価教育学会という教育者の集まりから始まり、小集団活動に基礎を持っていたために、政治的なユートピア主義には結びつかず、戦前は反体制的な特殊な日蓮系宗派の立場を守り通そうとしました。このため、初代会長の牧口常三郎は治安維持法違反で捕まり、獄中死をしています。
 ところが、今の公明党はまったくの体制派で、自民党と一体化しているようにすら見えます。どうしてこうなってしまったのかを考えると、創価学会が、組織の発展を宗教そのものの成功と同一視する傾向を持っていることが、大きいのではないかと思います。
 それから、他宗教や他派を批判する排他性も強く内部の結束を重視する。党と教団が完全な一枚岩ではないとはいえ、そういった性格のもとで、選挙による党の成功と教団の勢力維持とが結びついてしまっているんですね。
 私自身は、現在の創価学会と公明党は、宗教のあり方をめぐる非常に重い問題に直面していると考えています。本来の理念である仏法に基づく平和主義・人間主義をそっちのけで組織維持のためにタカ派政策に乗っかっています。どの宗教でも同様の傾向はあるにせよ、信者の獲得、組織の拡大・維持を最大の目標にするという姿勢そのものを考え直すべき時に来ているのではないでしょうか。
[中島] 島薗先生がおっしゃったように、創価学会にはもう一度自分たちの過去と向き合ってほしいと私は考えています。
 設立後、十数年しかたっていない1943年に、初代会長の牧口常三郎が伊勢神宮の大麻(神札)を受け取らなかったことで治安維持法違反とされて、翌年に獄中死する。同じく理事の戸田城聖も捕まる。それが彼らの戦前の痛烈なまでの経験です。
 池田大作氏が書いた『人間革命』の始まりのほうはその話が中心になっている。つまり、権力から弾圧を受けた経験を背負っているから、信仰の自由というものが彼らにとっての非常に大きなテーゼになっている。
 思想的にパターナル(※強い立場にある者が、弱い立場にある者の利益になるようにと、本人の意志に反して行動に介入・干渉する)な安倍首相に対して、信仰の自由など本来、リベラルの方向に立とうとする公明党というのは、その理念では反対向きのはずです。政策的にも、自己責任を強調するようになった自民党に対して、セーフティーネットを整えろと言う公明党は、方向性は逆です。
 しかし、公明党の目標が与党であり続けることにすり替わってしまった今、理念や政策の違いを超えて自民党に追随してしまう。その結果何が起きるかというと、自分たちがまさに弾圧されたような、たとえば秘密保護法のようなものを自分たちで推進してしまう。あるいは集団的自衛権の問題についても、自民党のほうに引っ張られてしまう。
[島薗] 私が創価学会の問題を重く見るのは、前章で述べた「正法」とも関係しています。
 正法をもう少し平たい言葉で言えば、仏教の社会倫理理念であり、仏教の社会性の自覚ということになりますが、創価学会はこの正法の理念を自覚し、現代的に実践しようという姿勢を持つ宗教団体のひとつです。社会参加・政治参加を謳っている宗教団体であればこそ、国家とは距離を保って活動してほしいわけです。
 ちなみに、同じ法華、日蓮系の在家宗教団体である立正佼成会は、集団的自衛権や安全保障関連法制について反対の声明を出しました。(p.202~4)
 ま、所詮、国民は、己の知的レベルに相応しい政治しか持てないということですね。
by sabasaba13 | 2017-07-04 06:25 | 鶏肋 | Comments(2)
Commented at 2017-08-08 09:26 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by sabasaba13 at 2017-08-14 09:28
 こんにちは、M.T.さん。コメントありがとうございました。モエレ沼公園にはライトアップされた「海の噴水」を見に行きましたが、芸術の森野外美術館とミルトアートパークには行きませんでした。後者についてははじめて知りましたが、面白そうな美術館ですね。いつか機会があったら訪れてみたいと思います。また貴重な情報をご教示していただけると幸甚です。それでは。
 
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