近江編(4):大津京駅(15.3)

 大津京駅構内には、大津京に関する展示がありました。そう、ここは663年の白村江の戦いの後、667年3月に中大兄皇子が飛鳥から遷都をしたところですね。その当時の状況について、『日本の歴史03 大王から天皇へ』(熊谷公男 講談社)から引用します。
 667年(天智6)になって、中大兄皇子は王都を近江大津宮に移した。近江は畿外の地にあたる。王都が畿内の外に出たのは、伝説時代を別にすればはじめてのことである。ヤマトの人々にはつよい抵抗があった。『書記』には、遷都のときに「天下の百姓、都遷すことを願わずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く(風刺する)者多し。童謡(わざうた:風刺の歌)また衆(おお)し。日日夜夜、失火の処多し」とあって、人々の反発と不穏な情勢とを伝えている。
 近年の調査によって大津市の錦織地区から宮殿とみられる大型の掘立柱建物跡が発見され、近江大津宮跡であることがほぼ確定した。この地域には、比叡山のふもとの傾斜地がおよんでいて、琵琶湖との間にはせまい平地しかない。ここに難波長柄豊碕宮のような巨大な朝堂院をもつ王宮を造営することは困難である。
 このころ半島では、唐は高句麗征討の真っ最中であり、新羅も出兵を命じられている。また国内では、ヤマトに高安城を築くなど、防衛体制の強化に努めていた。東アジア情勢は、依然として緊迫していたのである。そうしたなかで中大兄皇子が、人々の反対を押し切ってヤマトよりさらに奥まった近江に王都を移したのは、防衛体制の強化が主たる目的であったとみてまちがいないであろう。(p.314~5)
 なお疑問なのは、「大津京」という駅名です。熊谷氏が指摘されているように、ここに大きな王宮を造営することは困難です。またウィキペディアによると、日本書紀には、平城京や平安京のような条坊制が存在したことを示す記載はないほか、特別行政区としての「京域」の存在も確認できないとのことです。よって「大津京」ではなく「大津宮」と表記するのが、歴史学的には正しいのではないのか。ま、壮大な王都があった方が、地域の誇りになるし観光客誘致にも資すると考えたい気持ちもわかりますけれど。駅にあった展示資料には「大津宮」と記されていたので、そのあたりは理解しているようです。
 もう一つ、その資料には中大兄皇子が「天智天皇」として即位したと記されていましたが、これについても再考すべきだと思います。「天皇」という称号は、この時点ではまだ成立していないというのが古代史の定説です。同書より引用します。
 …天皇号の成立時期については、一部に推古朝説もあるが、現在は、筆者も含めて天武・持統朝説をとる研究者が多数を占める。筆者は、「天皇」という称号は、まず天武天皇をさす尊称として天武朝に誕生し、没後の持統朝に浄御原令の制定とともに君主号として法制化されたと思う。(p.335~6)

 本日の一枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-11 06:22 | 近畿 | Comments(0)
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