近江編(12):近江八幡(15.3)

 ここから八幡堀を越えてすこし走ると、旧中川煉瓦製造所ホフマン窯に到着です。残念ながら非公開で、外から煉瓦造の煙突を撮影することしかできませんでした。なお「滋賀文化のススメ」というサイトに詳しい解説があったので、小生の文責で要約します。
 "富国強兵""殖産興業"をスローガンに日本全体が近代化に力を尽くした明治時代、その象徴が煉瓦を使った建築物でした。煉瓦建築の需要が高まると、滋賀県内でもいくつかの煉瓦製造工場が操業を開始し、その一つが、ここ旧中川煉瓦製造所およびホフマンです。ホフマン窯とは、ドイツ人技師フリードリッヒ・ホフマンによって1858年に特許を取得された、煉瓦を焼くための窯のことです。煙突の下にはトンネル状の窯がぐるりと「ロの字」のようにめぐっており、内部に仕切りを入れていくつもの"部屋"を造り、各部屋に乾燥させた煉瓦を積み上げて、反時計回りの順に焼成していきます。およそ半月ほどでホフマン窯を一周しますが、これを繰り返すので、年がら年中煉瓦を焼き続けることができる仕組みです。
 なぜ近江八幡で煉瓦製造が行われたのか。もともと近江八幡は江戸期より「八幡瓦」で有名で、土を利用した同じ"焼物"ということで、その取り扱いに共通な点があったためです。また、大量に焼かれた煉瓦を各地へ運び出すのに、八幡堀と琵琶湖の水運を利用できたことも幸いしました。さらに、1890(明治23)年には琵琶湖疏水が竣工したため、京阪神方面への煉瓦の供給が容易となりました。
 明治時代から大正時代にかけて建築資材として多用された煉瓦ですが、関東大震災で煉瓦建造物の多くが崩壊したため、その後は煉瓦造りの建物はあまり建てられなくなり、コンクリートにその座を奪われてゆきました。ここ中川煉瓦製造所も1967(昭和42)年まで煉瓦の販売を続けましたが。ホフマン窯での煉瓦製造がいつまで行われていたかについては、確かな記録は残っていないそうです。おしまい。
 煉瓦に歴史あり、ですね。近代化の貴重な証人、ぜひとも整備をして公開されることを熱望します。なお現存しているホフマン窯は四つ、ここと、栃木県下都賀郡野木町にある旧下野煉化製造会社(シモレン) 、埼玉県深谷市にある旧日本煉瓦製造、そして京都府舞鶴市にある旧神崎煉瓦です。未見の旧神崎煉瓦はいつの日にか、訪れてみるつもりです。

 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-07-23 06:57 | 近畿 | Comments(0)
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