近江編(16):近江八幡(15.3)

 そしてヴォーリズが結核療養所にかけた思いを理解するためには、結核患者がおかれていた状況を知らなければならないでしょう。私も、正岡子規の『病牀六尺』や『仰臥漫録』、徳富蘆花の『不如帰』、堀辰雄の『風立ちぬ』、梶井基次郎の『冬の日』を読んで多少の知識はあったのですが、『ドキュメント 恐慌』(内橋克人 社会思想社)によって患者と家族の凄絶な苦境を知り、呆然としました。
 庶民にとって、病気はすべての「終末」を意味していたのだ。なかで恐れられたのが結核である。ひとたび不治の病"肺病"にかかると、本人はいうまでもなく家族もろとも泥沼の中にひき込まれてしまった。
 「あのころ、日赤病院の二人部屋で入院料は一日七、八円でした。治療費はむろん別ですよ。三食の食事代とベッドだけで、それだけかかったんです。一カ月入院しますと、もう大変なもので、まず二〇〇円はかかったでしょうね。普通のサラリーマン家庭ではとてもとても…」
 結核は入院一カ月ですむはずがない。毎月毎月、二〇〇円ずつ病院に支払っているうちに借金がかさむ。せっかく入院しても費用がつづくはずがないから、死ぬのを覚悟で退院していく人が患者全体の七、八割はいた-東京・信濃町の慶応病院で恐慌のころ、ずっと看護婦をしていたという山田りつさんが、暗い表情で回想するのだ。
 思いつめた顔つきの家族が、廊下の片隅で医師にヒソヒソ何か頼み込んでいる。(略)後で聞いてみると、医師は「早く死なせてやってくれ、と哀願するんだ」と、さもうんざりしたといった表情で教えてくれたそうだ。同じ安楽死を望む、といっても本人を苦しみから解放してやりたい、というのではない。これ以上"ぜいたく病"の肺病で患者に入院生活を続けられたのでは、家族は「一家心中」しなければならないから…という訴えだった。
 山田さんにとって、いまでも忘れられないのは、ある近郊農家でのケースである。都会に働きに出ていた娘が過労で倒れた。どうやら胸(結核のこと)らしいという。そのうちゴホンゴホンとやり出し、いつか血痰もまじり始めた。本人は家に帰りたいという。だが当時、結核は伝染病とあって、閉鎖的な農村では患者の出た家は村八分にされかねないほどのきらわれよう。一人残らず家族は患者の希望に猛反対だった。が、そうもいっておれず、望みを入れて患者を帰郷させることにしたのだが…
 (略)私が奉仕の気持ちで出かけてみますと…患者は牛小屋に隔離され、食事も特別の食器、用便も小屋の中ですませていたそうだ。家族はただひたすら、本人の死ぬのを待っている。
 そのうち、とうとう娘は亡くなった。
 「お葬式が終わってから、家族は牛小屋に火をつけました。病菌もろとも焼きつくそうと考えたのでしょう。飼っていた牛にも、肺病がうつったと思ったのでしょうか、牛もろとも焼いてしまったんです…」
 ぼうぼうと火の手をあげる牛小屋。その中でただ命の絶えるのを待つだけだった患者の恨み-山田さんの目には、いまでもそれが見えている。(p.65~7)
 一読、肌に粟が生じました。もちろん治療法の遅れなど時代の制約があったのは重々承知していますが、それにしても…それにしても、です。巨額の軍事費を削減して、入院費や治療費の安い結核療養所を数多くつくることはできなかったのか。おそらく物理的には可能だったと思いますが、近代日本はその選択肢をとらなかった。なぜか? おそらく、富者を優遇し貧者を放置する、激烈なる格差社会こそが、近代日本の本質だったからだと考えます。『日本人の「戦争」』(講談社学術文庫)のなかで、河原宏氏がこう述べられています。
 富める者がますます富み、貧しい者はますます貧しくなる趨勢を放置する国、粗暴な軍人と貪欲な資本家、汚職まみれの政治家と奸佞な官僚が「神」なる天皇を頂いて支配する国だった。(p.31)
 そう、天皇の権威を隠れ蓑にして官僚・政治家・軍人・資本家が、民衆を搾取する格差社会です。そして、このシステムのことを「国体」と言い表していたのだと思います。このシステムの維持こそが、彼らにとっての至上課題であり、それに一指も触れさせないための法律・規制・メディア統制・教育などを網の目のように張り巡らせたのでしょう。かの治安維持法(1925)が「国体ヲ変革」しようとする組織を処罰対象にしたのも宜なるかなです。
by sabasaba13 | 2017-07-27 06:26 | 近畿 | Comments(0)
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