関東大震災と虐殺 16

 警察による流言の組織的かつ意図的な流布、殺人の容認、武器の貸与、これは各警察署が独自の判断で個別に行なった措置とはとても考えられません。やはり水野錬太郎(内務大臣)・赤池濃(警視総監)・後藤文夫(警保局長)の協議によって決定され、赤池が各警察に命じたと推測します。状況証拠の一つとして、後日に赤池が語った言があります。(②p.128~30)
 今回の警戒救護に際しては、宣伝の効能顕著なるものがあった。又痛切に宣伝の必要を感じた…斯る際人心を安定し、常調を維持せんと欲せば絶えず良好有益なる事実を極力宣伝し、之を普及徹底せしむる必要がある。当時警視庁は苟も有益なりと信ずる資料は直に之を謄写してオートバイ、自転車を飛ばし之を諸処に掲示し、大声又はメガホンを以て伝えしめた
 証言と一致する流言流布の方法を、赤池を中心とする警視庁が発案して指示したことがわかります。
 さらに「朝鮮人暴動」を事実と看做した治安当局の中枢(水野・赤池・後藤)は、その情報と、朝鮮人に対する対策を、公式なルートを通して各地に流布しました。
 1923年12月15日の衆議院本会議での永井柳太郎の演説によると、埼玉県内務部長・香坂昌康は9月2日午後五時頃に東京の内務省から帰ってきた地方課長の報告を受けて、下記の移牒を郡役所経由で各町村に伝えました。
不逞鮮人に関する件
移牒
 東京に於ける震災に乗じ暴行を為したる不逞鮮人が川口方面より或は本県に入り来るやも知れず、又其間過激思想を有する徒之に和し、以つて彼等の目的を達成せんとする趣聞き及び漸次其毒手を揮わんとする虞有之候、就ては此際警察力微弱であるから、町村当局者は、在郷軍人分会、消防手、青年団員等と一致協力して其警戒に任じ、一朝有事の場合には、速かに適当の対策を講ずるよう至急相当御手配相成度旨其筋の来牒により此段及移牒に及び候也 (『現代史資料』6巻)
 壊滅状態にある警察力を補強するために、各町村においていわゆる「自警団」を結成し協力するよう指示したわけです。注目すべきは「適当の対策」という文言、これは「場合によっては殺害やむなし」という暗黙の内容を含みもたせています。これによって埼玉県各地で自警団がつくられ、後に熊谷、本庄、神保原などでの虐殺事件を引き起こすことになりました。また史料は見つかっていませんが、群馬県・千葉県など近県にも同様の移牒が伝えられたと推測します。東京・横浜では戒厳司令部が在郷軍人会、青年団、消防団のみならずこの際「一般人ヲモ亦極力自衛ノ実ヲ発揮シテ災害ノ防止ニ努メラレンコトヲ望ム」との告諭を発して、広く国民全体の参加をうながしたと、姜氏は指摘されています。この告諭はビラ、回覧板、ポスターとなって一般に広く伝達されました。(①p.136~7)

 そして警保局長・後藤文夫は、おそらく2日の午後、各地方長官宛に在日朝鮮人が暴動を起こしたことを告げて彼らに対する取締りを命じた電文を起草しています。内容は下記の通りです。
 東京付近の震災を利用し、朝鮮人が各地に放火し、不逞の目的を達成せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火する者あり。既に東京府下の一部に戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対して厳密なる取締りを加えられたし。(琴秉洞編・解説 『関東大震災朝鮮人虐殺問題関係史料Ⅱ 朝鮮人虐殺関連官庁史料』 緑蔭書房、1991年、p.158)
 翌9月3日午前8時15分に、船橋海軍無線電信所から各地方長官宛にこの電文が送られましたが、その欄外に「この電報を伝騎にもたせやりしは二日の午後と記憶す」と記されているので、電文の起草は9月2日と考えられます。
by sabasaba13 | 2017-09-29 06:24 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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