関東大震災と虐殺 22

 次は、大島事件に深く関わる亀戸署の動きです。(⑩p.51~6) 亀戸署が異常な雰囲気に包まれたのは、前日の9月2日午後7時以降です。それまでは管内に火災も少なく、比較的平穏でしたが、午後7時過ぎ、小松川町方面に「朝鮮人が暴動を起こしている」との流言が流れ、警鐘を鳴らす者がありました。 このとき、古森繁高署長(もと警視庁特高課労働係長)は自らサイドカーにまたがって陣頭指揮をとり、朝鮮人の検束を命じたのでした。この日には軍隊と協力して約760人、翌9月3日には500人以上の朝鮮人を検束しました。(『朝日新聞』 1923.10.11)
 しかし二夜で1300余人を検束するという状況は、深刻な恐慌心理を管内・署内にまきちらしました。署員数わずか230余人、おまけに1日正午の地震発生以来、警察官も兵士も不眠不休の緊張状態を強いられています。9月3日朝からの管内各所での中国人・朝鮮人虐殺は、こうした背景があって暴発しました。「大島事件」も亀戸署管内で起きた事件でしたが、既述のように計画性が感じられるものでした。しかしそれ以外の虐殺事件は、流言を盲信し、戒厳という状況下で、朝鮮人を敵と見なして殺戮するケースが多かったようです。若い兵士や警官が完全に興奮して「鮮支人は見つけ次第殺してもいいんだ」と口走る姿が、後に報告されています(「事件つづり」)。
 署内に検束された朝鮮人の中からも、数十人が殺されたという全虎巌(チョン・ホオム)氏の証言があります。これは尋問の結果、独立運動・労働運動・社会主義運動に関わった「不逞」な朝鮮人と認定された人たちかもしれません。
 朝になって我慢できなくなり便所に行かせてもらいました。便所への通路の両側にはすでに3、40名の死体が積んでありました。この虐殺について、私は2階だったので直接は見て居ませんが、階下に収容された人は皆見ているはずです。虐殺のことが判って収容された人は目だけギョロギョロしながら極度の不安に陥りました。誰一人声をたてず、身じろぎもせず、死人のようにしていました。
 虐殺は4日も一日中続きました。目かくしされ、裸にされた同胞を立たせ、拳銃をもった兵隊の号令のもとに銃剣で突き殺しました。倒れた死体は側にいた別の兵隊が積み重ねてゆくのを、この目ではっきり見ました。4日の夜は雨が降りましたが、虐殺は依然として行われ5日の夜まで続きました。(中略)
 亀戸署で虐殺されたのは私が実際にみただけでも5、60人に達したと思います。虐殺された総数は大変な数にのぼったと思われます。(⑨p.72~5)
 さらに3日午後4時、前述のように、第一師団司令官・石光真臣は「隷下各団体に対する訓示」を各部隊に通達しました。再掲します。
 (※朝鮮人が)計画的ニ不逞ノ行為ヲナサントスルガ如キ形勢ヲ認メズ、鮮人ハ必ズシモ不逞者ノミニアラズ之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ宜シク此両者ヲ判断シ適宜ノ指導ヲ必要トス
 "之ヲ悪用セントスル日本人"、つまり社会主義者や労働運動家を「適宜」「指導」してよいというお墨付きを与えられた古森署長は、3日午後10時頃、川合義虎(南葛労働会)、平沢計七(純労働者組合)ら10人の労働運動家を、狙い打ちで検束しました。南葛労働会や純労働者組合は、悪法反対運動やメーデー、1922(大正11)年の大島製鋼所争議などをめぐって亀戸署と激しく対立していたのですね。また既述の証言者・全虎巌は、南葛労働組合のメンバーでした。学校に通うため2年前に来日した全は、朝鮮独立への思いから社会変革の必要を考えるようになり、この頃、ヤスリ工場の労働者として労組の活動を熱心に行っていました。警察と対立し、朝鮮人労働者との連帯を模索する労働運動のリーダーたちが、1300余人もの無実の人々が留置されているところへ送り込まれたわけです。留置場内の興奮と署内の緊張は、いよいよ高まったことでしょう。
by sabasaba13 | 2017-10-11 06:19 | 関東大震災と虐殺 | Comments(0)
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