自転車を返却して、彦根駅から琵琶湖線新快速に乗って十四分ほどで近江八幡駅に到着です。一昨日の探訪で見残したいくつかのヴォーリズ物件を見て回ることにしましょう。前回と同様(書き忘れた気もしますが)駅近くにある「
駅リンくん」で自転車を借りて、まず向かったのは旧近江家政塾(石橋邸)です。直交する屋根と「
焼き過ぎ膨張レンガ」の塀が印象的。資料の解説を転記します。
キリストの精神に基づき、実力ある婦人の養成を身につける目的とした教育事業の学校であった。吉田悦蔵氏の妻、清野夫人が料理等、街の婦人教養を目的に近江家政塾として建てた。大屋根を架けた外観は和風で、床は板張り、大きく開口部をとり、教室を明るくした。ミッション教育事業の一翼を担うことになった。
すぐ近くにある旧広瀬邸は「bistro だもん亭」として再利用されていました。同じ資料から引用します。
木造2階建て、日本瓦葺きで外壁は真壁である。窓のデザインは建築当時の木製の両開き窓を現代風にアレンジしている。玄関は南側に位置する。室内はヴォーリズ建築の特徴が随所に残っており、住み心地を重視したヴォーリズのヒューマニズム溢れる空間を感じることができる。
ピカチュウの
飛び出し人形を撮影して、しばらくペダルをこぐと「朝鮮人街道」という石柱がありました。
解説文を転記します。
朝鮮人街道(京街道)
江戸時代、将軍が交代するたびに朝鮮国より国王の親書をもって来日する「朝鮮通信使」は、役人の他にも文人や学者など、多い時には500人規模で組織され、往復で約1年もの歳月を費やしたと言われています。
行程はソウルから江戸までの約2,000キロにもなりますが、近江八幡を含む、彦根から野洲までの一部の地域で「朝鮮人街道」と今も呼ばれています。
本願寺八幡別院(市内北元町)では正使、そして京街道(当地域)一帯で随員の昼食や休憩場所として使われ、当時の町人はまちを挙げて歓迎し、文化交流がさかんに行なわれました。
朝鮮通信使に関する史跡などは、これまでに
牛窓、
豊橋、
勝本(壱岐) 、
厳原(対馬)、
室津、
鞆、
下蒲苅島、
清見寺など、各地で出会いました。両国それぞれの思惑はあるでしょうが、基本的に友好的な関係を保った歴史を忘れないようにしたいものです。