近江編(60):醒ヶ井(15.3)

 醒井の話に戻りましょう。加茂神社に「鮫島中将の歌碑」があったので、その解説文を転記します。
 明治28年、北白川能久親王は、台湾で熱病にかかられ、重体になられました。病床で「水を、冷たい水を」と所望されましたが、水がありません。付き添っていた鮫島参謀は、かって醒井に来られた時の水の冷たさを思い起こされ、一枚の紙に

あらばいま 捧げまほしく 醒井の うまし真清水 ひとしずくだに

 と詠んで親王のお見せになると、親王もにっこりされたと伝えられています。鮫島中将の直筆の、歌碑です。
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 北白川能久親王の銅像について以前拙ブログに掲載しましたが、なかなか波瀾万丈の人生を送った方です。

 それでは駅へと戻りましょう。のんびりと歩いていると、はるか遠方に残雪を頂いた霊峰伊吹山が眺められます。道の脇にやや広い空間があり、「子供狂言上演場所」という解説がありました。
 醒井宿では、明和元年(1764年)頃から、東新町、新町、本町、西町の各町に一基ずつ計四基の曳山があり、地蔵盆には宿場内を引き回し、子供狂言が奉納されていました。上演場所は、中山道を往来する人馬の邪魔にならないように、道路の一部を拡げておき、ここに曳山を据えて行っていました。
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 その先には「西行水」という湧水があり、「泡子塚」という解説がありました。
 岩の上には、仁安三戌子建立の五輪塔があり、「一煎一服一期終即今端的雲脚泡」の十四文字が刻まれてあります。
 伝説では、西行法師東遊のとき、この泉の畔で休憩されたところ、茶店の娘が西行に恋をし、西行の立った後に飲み残しの茶の泡を飲むと不思議にも懐妊し、男の子を出産しました。
 その後西行法師が関東からの帰途またこの茶店で休憩したとき、娘よりことの一部始終を聴いた法師は、児を熟視して「今一滴の泡変じてこれ児をなる、もし我が子ならば元の泡に帰れ」と祈り

水上は 清き流れの醒井に 浮世の垢をすすぎてやみん

 と詠むと、児は忽ち消えて、元の泡になりました。西行は実に我が子なりと、この所に石塔を建てたということです。
 今もこの辺の小字名を児醒井といいます。
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 本日の二枚です。
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by sabasaba13 | 2017-12-19 06:34 | 近畿 | Comments(0)
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