京都観桜編(10):六孫王神社(15.3)

 そして駅近くにある京都サイクリングツアープロジェクト(KCTP)で予約しておいた自転車を借り、いざ出発。まずは線路を南へ越えて六孫王神社へと参りましょう。源経基の子、満仲が父の霊を祀るために源経基の邸宅、八条亭に社殿を建てたのがはじまりです。敷地はそれほど広くはないのですが、神龍池を中心にさまざまな桜が密度高く植えられ、ここを先途と咲き誇っていました。しかも観光客はほとんどなし、ここは穴場ですね。お薦めです。
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 なお最近読んだ『無私の日本人』(磯田道史 文春文庫)所収の「大田垣蓮月」に、次の一文がありました。
「…耳の聞こえないあの子は目でみえる書物を懸命に読むようになりました。ほんとうに、いじらしいくらいに。ところが、妻は学問などすると、商売の邪魔になるといって、あの子が本を読むと『本ばかり読んで居ると御飯を食べさせぬぞ』ときつく叱り、無理やり、本を取り上げて隠してしまうのです。わたしはそれが不憫でなりませんでした。とはいえ、それもこれも、わたしが読書で家を傾けたせいですから、なんとも言えない。それで妻にいったのです。『この子は耳が遠くて商売には向かない。神主にでもしよう』といって、西八条の六孫王神社の稚児にやりました。紫の大振袖に袴をはけば、見事な稚児になるといってくれる人がいたので。しかし、なにぶん八つです。親元をはなれて、ずいぶん、さみしい思いをしたことでしょう。それで、あの子が稚児奉公をおえてもどってくると、わたしはあの子を連れて家を出ました。猷に、ひととおりの学問をさせてやりたいものですから」 (p.333)
 富岡鉄斎の父の言葉です。彼の幼名は猷輔、ここ六孫王神社で稚児奉公をしたのですね。余談ですが、本書でときどき耳にする大田垣蓮月の凄さを知りました。津藩藤堂家の高貴な血を引きながら、訳あって身分の低い武士の養女となったことから、数奇な運命をたどった江戸後期の絶世の美人です。二度の結婚で四人の子を産んだが、二人の夫に病死され四人の子には夭逝されました。剃髪して出家した彼女は歌人として名をなすと同時に、自作の焼き物に自詠の和歌を釘彫りする蓮月流を創始。しかし自らの歌集の出版を強引に差し止めるなど名誉を求めず、焼き物で手にした金は飢饉のさいに私財を投げ打って貧者を助け、人々の便利のため鴨川に橋をかけるなど慈善事業に勤しみました。旧幕府軍追討の旗を上げた西郷隆盛には、「あだ味方勝つも負けるも哀れなり同じ御国の人と思えば」の歌を送り自重を促しました。西郷が江戸城総攻撃を思い止まったのは、勝海舟や山岡鉄舟のおかげというよりこの歌のおかげとも言われます。(p.372~3) 記憶にとどめたい人物ですね。

 本日の三枚です。
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by sabasaba13 | 2018-02-14 06:29 | 京都 | Comments(0)
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