そして港の北にある国立沖縄青年の家へ向かい、受付で一言ことわりをいれ入場、西の展望台と東の展望台で眺望を堪能しました。
実は一番見たかったのが、ここにある「集団自決跡地」の碑です。米軍は1941年4月1日に沖縄本島に上陸するのですが、その前に慶良間諸島に上陸しています。その際の3月28日に、パニックに陥った329名の島民が集団自決に追い込まれますが、その慰霊碑がこれです。なおこの集団自決が軍命によるものであったのかどうかをめぐり、今でも問題になっています。今年の7月には、守備隊の遺族が、これが軍命であったと『沖縄ノート』で記述した大江健三郎氏と、出版社の岩波書店を名誉毀損で提訴する意向だというニュースがありました。遺族年金をもらうための偽証であったということです。また曽野綾子氏も『ある神話の風景』(文芸春秋)で同様の主張をしています。藤岡信勝氏ひきいる自由主義史観研究会も産経新聞も勢いづいて、この問題に取り組んでいるようです。要するに日本軍は住民を虐殺もしないし自決にも追い込んでいない、という主張です。
(関連記事のURLは
http://blog.satohs.jp/200507/article_88.html)
これに対して8月26日、集団自決の真実を探るツァーが沖縄平和ネット主催で行われ、かつて自らも家族を手にかけた金城重明氏がこう証言されています。「自決を命令する言葉があったかなかったではなく、軍隊によって住民が追い詰められていったことが問題だ。上陸一週間前に自決用の手りゅう弾を渡すなど、日本軍は巧妙に住民を追い詰めていった。」
(
http://www.okinawatimes.co.jp/day/200508271300_09.html)
私は金城氏の証言を信じます。教育や広報によって、捕虜になるよりも自決せよという思考を住民に刷り込み、追い詰めて行ったのは日本政府と日本軍です。何回でもくりかえします。「軍隊はまず自分を守る。次に、軍隊は給料を出す所を守る。すなわちその国の政権を守る。…軍隊は内敵と外敵から政権を守る。内敵とは、その国の政権に反対する国内の民衆である。」 旧日本軍の行ったことをきちんと見つめるべきですね、そうしないと同じことが繰り返されます。過去の歴史的事実に正面から対峙し未来のために生かすことは、自虐ではないでしょう。なおこの碑の碑文には、日本軍による軍命あるいは事実上の強制という文言は一切ありませんでした。建立したのは渡嘉敷村です。そしてびっくりしたのは、青年の家をぐるりと取り囲むハブ侵入防止用のフェンスです。そんなにハブが多いのか…
そして惨劇は まだ起こりません。
本日の一枚です。
なお05/10/26の日米審議官級会議は、普天間基地を辺野古に移転することに合意しました。まったくもう、この美しく小さな島々にどれくらい犠牲と負担と恐怖を押しつければわれわれは気が済むのでしょうか。決定権をもつ方々が住んでいる所に移転してほしいですね。東京にもっと米軍基地を! そして東京に原子力発電所と放射性廃物貯蔵施設を!