「絵はがきにされた少年」

 「絵はがきにされた少年」(藤原章生 集英社)読了。タイトルからは「アフリカ人少年との心温まる交流を描いた感動作」というイメージを受けましたが、パラパラと立ち読みをして、ざらっと心にひっかかる文をいくつか発見。即購入しました。著者は毎日新聞外信部員として、長期間(1995~01)南アフリカのヨハネスブルクに駐在されていた方です。アパルトヘイトが撤廃され、マンデラが初代大統領に就任した翌年に行かれたのですね。私などは、これで差別もなくなり、人々が一丸となって新しい国づくりに邁進しているのだろうなあ、よかった、などと漠然と考えていましたが、とんでもない。言うまでもないことですが(そしてすぐ忘れてしまうことですが)、社会や人間というのはそれほど単純なものではありません。著者は、現在の南アフリカやその周辺に暮らす人々の抱える様々な問題や苦しみや喜びを、援助や憐れみの対象ではなく、同じ人間という立場で伝えてくれます。本書から引用します。前者は著者の、後者はベンバ族の初老の女性の言葉です。
 助けるということは、無償のようでいて、実は助けられる側に暗になんらかの見返りを求めている。援助には目に見えない依存関係が隠れている。誰かがごく自然に「アフリカを救わなくては」と考えた途端に、その人はアフリカを完全に対等な相手とはみなさなくなる。友人同士のような関係は消え、極端なところ、支配と隷属に陥ってしまう。

 はっきり言って、食糧はもらいたくないんです。届いたときはみな喜び、何日間かは思いきり食べますけど。なくなったとき、とても、空しい気持ちになるんです。私たちはこんなに働いて、トウモロコシをつくっても、結局、ただでもらったほどのものをつくれない。だから、もらうのなら、まだ肥料をもらった方がいい。
 過酷な労働条件で働いたある鉱夫が、働くこと、仕事をもてることが幸せだった、と語っているのも印象的です。アフリカに暮らす人々の人間としての誇りや尊厳を考えずに、ただ闇雲に援助をばらまく行為のおぞましさを感じます。じゃあどうすればいい?、と言われても実は言葉に詰まります。どうすればいいのだろう? まずはアフリカについて知ること、そこから始めるしかないのか…

 「ハゲワシと少女」という写真でピュリッツァー賞をとり、その後なぜ少女を助けなかったのかという非難をあびて、謎の自殺をしたケビン・カーターの友人の証言もあります。あの写真は、国連の援助物資を受け取るために、母親がちょっと子供を脇に置いた時に、たまたまハゲワシが舞い降り、その瞬間を彼は撮影したそうです。そしてすぐにハゲワシは飛び去って行った。また彼は、アパルトヘイト体制下で、政府が開発して黒人居住区に無料でばらまいていたマンドラクスという麻薬の中毒だったそうです。彼の遺書は「すべて手に入れたのに、結局、自分自身であり続けることがすべてを台無しにしてしまった」という言葉で終わっているそうです。
 その写真をインターネットで調べていたら、この写真を使った道徳の授業プランがたくさんあることがわかりました。子供たちにカーター氏のとった行動について考えさせ、「アフリカを救いましょう」と呼びかけているようですね。ある先生はこう語っています。「ケビン=カーター氏の写真が、大きな意義があることに気づいて欲しかった。そのことで、世界中が考えていれる(ママ)ことを考えて欲しかった。しかし、行為の是非のみを判断し、授業の流れから、全体的に見させることができなかった。カーター氏の行為の裏の思いを考えさせることができなかった。」 カーター氏の行為の裏の思いを考えさせる?

●「ハゲワシと少女」 http://www.suzuki31.net/etc/sudan.html
by sabasaba13 | 2006-02-18 07:50 | | Comments(0)
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