伴大納言絵詞

 あまりインテリアに凝るほうではないので、このブログのスキンもすぐに決めてしまい、変えるのも面倒なのでほったらかしです。モンドリアンと青色が好き、ただそれだけです。倉持知子氏(ふさこ氏の妹君)の「青になれ」という漫画も大好きだったし。ただロゴ画像は少し工夫しようと、歴史的な物件をとりそろえて、正体を指摘されたら変えようと思っています。一発目は臼杵の石仏、これはすぐにばれたので、二発目は久隅守景の「夕顔棚納涼図屏風」。これはしばらく飾っていたのですが、音沙汰がないので正体を明かして、今の画像に変えました。これは難しいだろう、ふふふ、とほくそ笑んでいたのですが、コメントにあるようにmimishimizu2さんが見事解明! はい「伴大納言絵詞」に登場する、○で囲んだ不審な男です。
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 この作品は応天門の変を描いた平安末期の絵巻で、作者は常磐光長と言われており、現在は出光美術館所蔵です。応天門の変とはどんな事件か? 岩波日本史辞典から引用します。
 866(貞観8)年の応天門焼失事件に端を発した政変。大納言伴善男が政敵左大臣源信を犯人として訴えたが、無実となり、伴善男父子が真犯人として告発・処罰された。真相は不明だが、前後して藤原良房が摂政となった経緯からみて、良房の主導で、能吏として勢力を伸張しつつあった善男の失脚に事件が利用された疑いが濃い。
 というわけで、いわゆる藤原北家による他氏排斥の一環として、受験日本史定番の事件ですね。
 そしてこの絵巻をプロデュースしたのが、後白河天皇です。保元・平治の乱、平氏政権の成立と滅亡、そして鎌倉幕府の成立(文治の勅許により守護・地頭の設置が認められた年=1185年と考えます)という激動の時代の朝廷を支えた方ですね。この人は大変興味深い御仁で、藤原信西からは「謀反の臣[※藤原信頼]、傍にあるも、一切覚悟の御心なし。人これを悟らしたてまつると雖も、猶もって覚えず。かくの如きの愚昧、古今いまだ見ず、いまだ聞かざるものなり。(玉葉)」と批判され、源頼朝からは日本国第一の大天狗(吾妻鏡)と痛罵され、鳥羽法皇からは「イタクサタダシク御遊ビナドアリトテ、即位ノ御器量ニハアラズト思召… (愚管抄)」と呆れられる、一筋縄ではいかない方だったようです。笛の名手にして、当時の流行歌である今様に執心し、名人上手と聞けば、身分の高下を問わず、遊女、傀儡子などをも召し出して、夜を徹して歌い、声をつぶしたこともあったそうな。その歌謡を彼が分類集成したのが「梁塵秘抄」ですね。私の大好きな「遊びをせんとや生まれけむ、戲れせんとや生まれけん、遊ぶ子供の聲聞けば、我が身さへこそ動がるれ (359)」という歌がおさめられています。その上、多くの絵巻物を制作させて、蓮華王院宝蔵におさめて頼朝にも見せびらかしていたようです。「法皇より宝蔵の御絵ども取出されて、関東にはありがたくこそ侍らめ、見られるべきよし仰つかはされたり (古今著聞集)」 頼朝の苦虫を噛み潰したような表情が眼に浮かぶようです。(あるいは鼻で冷笑したのかな) また、この時代に描かれた「源氏物語絵巻」「信貴山縁起絵巻」「粉河寺縁起絵巻」も彼が注文した可能性があるようですね、稀代のアート・プロデューサ-と言ってもいいでしょう。院政とは、清浄でなければならない窮屈な天皇という職能から逃れ、自由に好きなことをするために考案されたシステムなのかもしれません。
 それでは何故後白河は、約三百年も前の事件を絵巻で再現させたのでしょう? 「日本の絵巻2」(中央公論社)所収の、小松茂美氏の説を紹介します。1177(安元3)年、都は太郎焼亡と呼ばれる大火事に見舞われました。大内裏も延焼し、その猛火を眼前で目撃した後白河は、応天門も焼け落ちたと聞き、この事件と猛火の有様を絵巻で描くというアイデアがひらめいたのではないか。もう少し複雑な理由もありそうな気もしますが…
 燃え盛る紅蓮の業火、個性豊かに描き分けられた野次馬たち、躍動感に満ちた市井の人々、見事な筆致に見惚れてしまいます。そしてアニメーション映画監督の高畑勲氏が「十二世紀のアニメーション」(徳間書店)で指摘されているのですが、なんと野次馬の中に痴漢らしき男がいるのですね。ええ度胸してるやんけわれ、と思わず河内弁で言いたくなりますが、この不届きな男を含めて、この絵巻に登場する人々はみんな大好きです。

 さて次なるロゴ画像は、痴漢が天使の所業に思えてくるような、とんでもない事をしている男の登場です。
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by sabasaba13 | 2006-03-15 06:05 | 美術 | Comments(0)
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